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きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~バイクに乗って富岡八幡宮へ

本日は、横浜市金沢区に鎮座してます富岡八幡宮にお参りします。この日は、金沢区のKAWASAKI PLAZAの試乗会があったので、その帰りに立ち寄ってみました

富岡八幡宮の御朱印です。初穂料300円

富岡八幡宮(神奈川県横浜市金沢区)


鎌倉幕府の鬼門除けとして祀られた神社です。八幡宮の山が応長元年の大津波から富岡を守ってくれたので「波除八幡」とも呼ばれています。

神社情報

鎮座地:神奈川県横浜市金沢区富岡東4-5-41

創建:建久二年(1191年)

ご祭神:応神天皇、蛭子神、天照皇大神

ご利益:商売繁盛、家内安全、交通安全、鬼門祓

社格:旧村社


1.ご由緒

当宮はおよそ八百年前、建久二年(1191)に源頼朝公が当郷鎮護の為摂津の西宮の恵比寿様をお祀りしたのが始めで、のち安貞元年(1227)には八幡大神を併せ祀り、社名も八幡宮と改めました。

鎌倉からはちょうど鬼門の方角に当たる海に面した小山に祀られていて、社も鬼門を向いており、鎌倉幕府の厄災防除の神としても祀られた神社です。また八幡宮の山が応長(1311)の大津波から部落を守った事から『波除八幡(なみよけはちまん)』とも称ばれ、広く江戸方面からも信仰を集め、深川・富岡八幡宮へ御分霊された事は有名です。 

祭礼は、7月(旧暦6月15日)と9月(旧暦8月25日)のニ季があり、いずれも「祇園舟」「湯立神楽」など鎌倉時代より八百年以上も継承されている特殊神事があります。

社殿の造営は、天正・慶長・寛永などの棟札に、鶴岡八幡宮造営に併せ、また破損の度に時の地頭が行った事が記されています。寛永1年~寛永3年の鶴岡八幡宮の造営に際し、漆塗りの本殿の扉を拝戴し、当宮本殿内陣の扉として移設されています。現在の本殿は天正14年(桃山時代)の建築で、平成14年の造営により覆殿(おおいでん)を復興し、柿葺(こけらぶき)の屋根・丹塗(にぬり)の社殿など、桃山時代の姿に蘇りました。(HPより引用)

2.富岡八幡宮の境内

駐車場から表参道の道を進むと、こちらの鳥居に辿り着きます。この鳥居のある辺りは、昔は海だったそうです。
手水舎で身を清めてからお参りします。
祇園舟は富岡八幡宮に伝わる特殊神事で、古来、旧暦六月十五日に行われていた夏越の祓の神事で、市の東南端海岸部に伝わる類似の行事の中でも最も古い伝承を持つ行事です。 青茅で作った長さ70センチ、幅50センチほどの楕円形の舟にお供え物として折敷に小麦の粒を敷き、その上に大麦の粉で作っただんごを置き、麦麹で醸した甘酒をかけたものを乗せ、舟縁には一年分十二本の御幣を並べ立て、中央には大きな御幣を並べ立てて、沖合遠く流します。青茅の舟と御幣に一年間の罪穢を託して流し遣る夏越の祓と、収穫した麦の初穂を海の神にお供えし、五穀の豊穣と海の幸の豊漁に感謝する要素が一緒になったものといわれます。 八幡丸・弥栄丸と呼ばれる二隻の艪舟で行われ、沖合の潮の流れのよいところまで進むと二隻の間から茅舟を放流し、帰ろは岸まで全速力の競漕で帰る勇壮なもので、宮の前が埋め立てられた今日でも優雅な雅楽の音とともに昔ながらにとり行われ、無形民俗文化財として貴重です。(横浜市教育委員会掲示より)
蛭子命(ひるこのみこと)と聞くと誰ですかとなりますが、えびす様です。蛭子命は、「古事記」では、伊耶那岐命(イザナギ)と伊耶那美命(イザナミ)との間に生まれた最初の神であります。蛭子は、イザナミの方から男性のイザナギを誘ったために、不具として生まれたと記されてます。
稲荷社
祖霊社
神域・・・海の岩が二個祀られております。
頼朝公が地震や津波を危惧して、丘の上に建てたと伝えられております。広く江戸方面からも信仰を集め 深川 富岡八幡宮へ御分霊されました。
扁額には正八幡と書かれてます
ガラス張りの拝殿・本殿は珍しいですね。
少し葉が落ちかかってましたが、見事な銀杏の御神木です。
こちらの社務所で御朱印頂けます。

3.参拝後の感想

KAWASAKI PLAZA金沢店から近かったので帰りに寄ってお参りしました。境内はきれいに管理されて小高い丘の上もあってか清々しい空気に感じました。祇園舟という800年以上続いている特別な神事があり、その年の罪やけがれを茅舟(かやぶね)に託して海に流し、すがすがしい気持ちで夏を迎えられるという。そんな伝統ある行事を一度見てみたいものです。

話は少し変わりますが、日本古来から伝わる伝統行事には、お正月、節分、雛祭り、お盆といった行事がありますが、年々参加人数が減っている傾向で、逆に海外の行事(クリスマス、バレンタイン、ハロウィン)が増えているということを耳にします(企業による宣伝効果が大きいのもあります)。確かに海外の行事は華やかで楽しい面が多いです。日本の伝統行事が薄れていくのは、何だか寂しく思います。筆者自身も少しでも行事に触れるようにして、伝統ある行事を大切にしていきたいと参拝を通して感じました。

4.地図・アクセス

アクセス:

京浜急行 京急富岡駅 徒歩8分

シーサイドライン 並木北駅 徒歩10分

駐車場:無料駐車場有り(表参道と裏参道の案内がありますがお好きな方からお参りください)

裏参道はこちらの鳥居を通り階段を上がっていきます。
もちろんバイクも駐輪出来ます。

 

 

 

きままにお城巡り~小田原城

本日は、お城巡り第一段として小田原城へ行ってみたいと思います。

御城印は初めてなので、近場の小田原城から行ってみることにします。(登閣日2019年12月1日) 

 

こちらの御城印は、北條早雲顕彰500年を記念したもので2019年12月までの限定となります。
こちらは通常の御城印で摩利支天です。


小田原城(神奈川県小田原市)


神奈川県小田原市にあるお城で難攻不落の城と言われてます。 15世紀の中頃に大森氏によって築城されたと考えられ、その後北条氏が攻略し本拠地としました。そして北条氏は5代100年もの間小田原城を拠点としていましたが、その間防御を固めるため城下は全長9キロに及ぶほどになりました。こうして強固な守りを誇った小田原城ですが、豊臣秀吉に討伐され北条氏は滅亡してしまいます。そして徳川家康に従っていた松平氏の家臣大久保氏が城主となります。その後時は経ち明治に入ると1870年に廃城となりました。 そして廃城の際に城内は解体されましたが、その後1960年より復興が進み天守閣・常盤木門・銅門・馬出門などが再建されました。

お城情報

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された。城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。

北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防衛の要衝として幕末まで存続しました。

明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。

昭和35年(1960) 天守閣復興

昭和46年(1971) 常盤木門再建

平成9年(1997) 銅門復元

平成21年(2009) 馬出門復元

平成28年(2016) 天守閣リニューアル 常盤木門SAMURAI館オープン

1.北條早雲公像

 

北條早雲公(伊勢新九郎長氏のち宗瑞、早雲庵。法名・早雲寺殿天岳瑞公)は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか、伊豆、駿河に勢威を及ぼした小田原北條氏五代の祖である。 「北條記」によれば、明応四年(1495)伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったという。その後小田原は、九十六年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し、東国一の都市に発展した。 終生伊勢姓を名のっていた早雲公の出身地は、京都、あるいは備中、あるいは伊勢ともいわれている。一時、室町幕府に随身していたが、のち駿河へ下って今川氏に身を寄せ、そこで卓抜な才知と果敢な行動力で頭角をあらわし、やがて伊豆、相模の二国を支配する大名になった。そして民政にもよく配慮をしながら、周到な計画性をもって国造り、町づくりをすすめたという。小田原城には嫡男の氏綱公を住まわせ、永正十六年(1519)八月十五日、八八才の天寿を全うして韮山に没した。戦国武将としてはめずらしい長寿であった。また北條姓は二代氏綱公から用いられた。早雲公は、東国の戦国時代の幕を切って落とした一代の風雲児と評され、一般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えている。しかし、伝来の北條家の家訓「早雲寺殿二十一ヶ条」において、早雲公は、身を慎み、礼を重んじ、質素倹約を旨とすべきことを説き、学問、歌道に親しむことを奨励している。実際は聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活においても、つねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。
菩提寺金湯山早雲寺は箱根湯本にあり、当初は早雲公、氏綱公の二代をまつっていたが、その後、氏康公、氏政公、氏直公をも加え、北條五代の霊を合祀している。

2..小田原城散策

学橋からは渡らず、正規ルートの正面入り口に向かいます。
馬出門桝形(うまだしもんますがた)・・・馬出門桝形は馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた範囲をいいます。二つの門は控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門です。馬出門桝形は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの場所に存在したと考えられます。
馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛丈12年(1672)に桝形形状に改修され、江戸時代末期まで存続しました。石垣と土塀で四角く囲んだ桝形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたとみられます
馬出門と内冠木門の間から見た小田原城が小さく見えます。
内冠木門(うちかぶらぎもん) 
松が大胆に右側に寄り掛かってます。
住吉橋を渡り銅門(あかがねもん)へ参ります。
銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉塀によって隔てられています。江戸時代には、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。
渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が施されてます
銅門の内部が特別公開してたので観覧しました。
階段先にある入り口から中に入ります。中は土足禁止です。
中にはボランティアの方でしょうか、説明してくださる方がいます。内部はとてもきれいで床はピカピカです。
中では評定が行われてました。熱い議論が交わされたことでしょう。
写真下の板を上に開けて、攻めてきた敵に石等を落とすしくみです。
反対側から見た銅門
小田原市指定天然記念物のビャクシンです。ビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。
銅門 土塀模型 この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したものです。使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たしました。古い建築の工法を分かりやすく伝えるため小田原市建築共同組合より寄贈を受けたものです。
銅門礎石 この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tもある立派なものです。
本丸東堀跡 江戸時代の小田原城は、本丸を塀が囲んでいました。発掘調査によって、この本丸東堀の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることがわかりました。そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は堀の名残と言えます。
NINJA館(歴史見聞館)
小田原城のイヌマキ イヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます。この木は、幹回り4.5mに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上5mのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。
常盤木門
常盤木門(ときわぎもん) 常盤木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分かっています。元禄16年(1703年)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870年)の小田原城廃城の際に解体撤去されました。常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もそのうちの一本が本丸の「巨松」として残っています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971年)に再建しました。
まことに盤石な構えの門です。
小田原城跡本丸の巨松 天保年間(1830〜1844)に書かれた「相中雑志」には、「御本丸多聞櫓の近き方に七本松という老松あり(以下略)」とありますが、この木はその7本松のうちの1本と推定されます。主幹は少し東に傾いていますが、今もクロマツ特有の優美な姿を保ち、付近の大きな松と共に天守閣を背にして立つ様子は、一幅の絵ともいえます。 以前は、市内のあちこちで美しい松の大木が、人々の目を楽しませてくれましたが、害虫のために次々と姿を消しています。その中で、幸いにして残っているこの松は、今日では、市内で大きさにおいて最大のもので、姿の点でも優れています (小田原市HPより)
現在の天守は複合式層塔型三層四階(内部は地上四階地下一階)、本瓦葺、昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリート造りで復興。天守に付櫓、渡櫓を付した複合式天守で、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられた。
実にきれいなお城で魅了されます。天守閣一般500円
伊勢宗瑞(北條早雲)の特別展が展示されてました。
城内では撮影は禁止ですが、こちらだけはOKです。
天守閣から相模湾を眺望 いや~360°見渡せていい眺めです。

3.常盤木門SAMURAI館

甲冑や刀剣などの武具に特化した展示を行い、武士の精神性や武具の美術性を紹介しています。プロジェクションマッピングも見れます。場所:小田原城址公園内本丸広場  開館時間:午前9時~午後5時(最終入館午後4時30分)入場料:200円 天守閣とセット券なら600円
常盤木門2階展示室
黒漆塗大久保藤蒔絵螺鈿打刀拵(くろうるしぬりおおくぼふじまきえらでんうちがたなこしらえ) 江戸時代 「大久保藤」は、「上り藤に大」紋とも呼ばれ、小田原藩主大久保氏の定紋です。このこしらえは、黒漆に金蒔絵で上り藤に大紋を規則正しく配列し、その間に螺鈿を施したものです。
刀 無銘 江戸時代 文政7年(1824)に浅田兄弟の兄鉄蔵が仇討ちの際に用いたとされる刀です。やや細身で、長さ66.7cm、反り1.7cm、無銘ですが実際に万助と切りあい、切り伏せた刀です。
啄木糸威二枚胴具足(たくぼくいとおどしにまいどうぐそく) 江戸時代初期
鉄黒漆塗六十二間筋兜(てつくろうるしぬりろくじゅうにけんすじかぶと) 室町時代末期
プロジェクションマッピング「花伐つ鎧」思わず見とれてしまいました。十分に見る価値あります。

4.御城印帳

写真の御城印帳は、2019年12月までの限定みたいです。三つ鱗が施され、中はポケットが付いていて御城印をスマートに入れることが出来ます。

5.まとめ

小田原城には今年の4月に報徳二宮神社へ参拝した際に立ち寄り天守閣も登ったのですが、素敵な御城印と御城印帳を購入出来るとあって再び訪れた次第です。Twitterの情報では、銅門の内部を土日無料開放してるとのことで、日曜日に行ってみたら情報通り観覧出来ました。(必ずしも土日開放しているとは限らないので確認お願いします)

摩利支天の御城印もいいのですが、限定の小田原城の字体と三つ鱗の印がかっこよくどうしても手に入れたかったので大変満足しております。この日は初めて御城印帳なるものも手に入れて意気揚々としておりました。お城巡りとなると、神社とは違い数が少なく近場にない場合があるので、神社巡りをして近くにお城があれば、寄っていこうと思います。

6.地図・アクセス

アクセス:小田原駅から徒歩10分

駐車場:近隣のコインパーキングを利用