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きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~月岡神社~上山城

本日は、山形県上山市に鎮座してます月岡神社へ参拝します。こちらの神社は上山城の近くにあるので上山城も観覧してみました。(参拝日2020年2月21日)    

こちらの神社では書き置きの御朱印を頂けます。月ごとに押される印が変わるので季節ごとに楽しめます。今月は梅が押されてます。
上山城の御城印 1階受付で頂けます、300円 日付も書いて頂きました。


月岡神社(山形県上山市)


ご祭神は藤井松平利長公と信一公。松平家は徳川家康につながる名門の家柄で藤井村(愛知県安城市)に住んでいたことから藤井松平といいます。 御祭神 利長公は、藤井松平家の始祖であり二代目信一公は、家祖として武勇の誉高く群雄が割拠する戦国時代に家康と共に信長に仕え、「桶狭間の戦い」に参加その後も徳川援軍の将として「姉川の戦い」「長篠の戦い」「小牧長久手の戦い」など家康が関わった主要な合戦には常に加わり出陣し武功を挙げ勇将・猛将として天下に名をとどろかせ、松平家興隆の基礎を築かれた御方である。

神社情報

鎮座地:山形県上山市元城内3-23

創建:明治十一年(1878年)

ご祭神:藤井松平利長公、藤井松平信一公

ご利益:縁結び、恋愛成就

 

1.ご由緒

元禄十年(一六九七)藤井松平家七代の信通公が備中庭瀬から上山城主に転封になり、信通公城内本丸に東照宮を建立し、併せて祖先の利長公・信一公の神霊を合祀し、徳川の恩義を追慕し、祖先の遺徳を仰ぎ藩士一同厚く崇敬した。明治四年(一八七一)廃藩の際、東照宮は旧藩主の上京と共に東京の松平氏邸に奉遷され、藩祖利長公・信一公の神霊は湯町に鎮座する日枝神社に奉遷された。明治十年(一八七七)旧本丸に壮麗な社殿を建立して松平家祖先の利長・信一両公の神霊を奉遷座し、報恩の誠を尽くし、永く上山の鎮守神と仰ぎ、産土の守護神として祈願すべきとの議起こり、同年六月神社の建設を願い出、同年十月許可を得て月岡神社と称した。
明治十一年九月神殿落成、同月十五日、日枝神社より奉遷座した。明治十五年五月村社に列せられ、明治四十年八月鶴脛町内に鎮座の九社を合祀。
明治四十三年五月神饌幣帛料供進神社に指定された。
大正二年稲荷神社を合祀(HPより)

2.月岡神社の境内

神明鳥居を通り拝殿へ向かいます。お城の隣に位置していて静かな佇まいの中にあります。
松の枝の振り方が芸術的で見事です!
素朴な雰囲気です。
拝殿でお参りします。赤い屋根が特徴的です。
月岡神社の扁額 歴史あるように見えますが創建は明治とのこと
拝殿には書き置きの御朱印が置いてありました。こちらは神職の方はいらっしゃらないので一枚頂き300円右の木の箱におさめました。

3.上山城

 

かみのやま温泉駅から徒歩10分くらいで着きます。
上山城は、最上氏の最南端の城塞であり、米沢の伊達氏や上杉氏との攻防の舞台となりました。最上家改易の後は歴代藩主の居住となりましたが、城下町まで含めた諸施設が整ったのは土岐氏の治政下で、月岡・天神森にそびえる壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れわたりました。しかし、元禄五年(1692)土岐氏の転封と共に、幕府により取り壊され、現在は堀跡や石垣が当時の名残をとどめています。現在の上山城は、映像など多彩な展示方法を取り入れた郷土資料館です。
月岡神社側からの上山城
入場料大人420円 入館時間は午前9時から午後4時45分 城内を見てまわってると、蔵王の修験者がほらがいをふいていて少しびっくりしました。
金のしゃちほこが輝いてます。去年屋根瓦等改修工事が完了したので、とても美しかったです。
天守閣からの眺望です。中央右側の山が三吉山、左側が葉山
市街地と蔵王連峰 雄大な風景に圧倒されます。

4.参拝後の感想

山形県の神社にお参りするのは、初めてでお城とセットで見れたので来た甲斐がありました。城内の展示も凝っていて修験者がなかなか迫力ありました。天守閣からの眺めも実に雄大さを感じました。お城のすぐ近くには足湯があります。

5.アクセス

電車:かみのやま温泉駅から徒歩10分

6.昼食

山形市にある元祖紅花そば綾波で昼食頂きました。
注文したのは、おすすめセットで紅花そば、混ぜご飯、きのこ汁。もれなく海老天もサービスで付いてきました。人生初の紅花そばは、つるつるした食感でいくらでも食べれます。どれも美味しかった~

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~眞田神社~上田城址

本日は、長野県上田市、上田城本丸に鎮座する眞田神社へお参りします。

雪がうっすらと積もるなか朝一で行ってきました。(参拝日2020年2月18日) 

眞田神社の御朱印 節分なので鬼のスタンプが押されてます。
かぶとの御朱印帳がかっこよく、拝受しました。六文銭がこれでもかと感じさせる御朱印帳です。


眞田神社(長野県上田市)


上田城本丸跡にある神社、上田神社 歴代上田城主を合祀しています。

神社情報

鎮座地:長野県上田市二の丸1-12

創建:1879年

ご祭神:歴代の上田城主

ご利益:勝負運、仕事運

1.ご由緒

上田城本丸跡に鎮座する当社は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としています。しかし、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していました。

松平家は、真田氏、仙石氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで七代百六十余年の長きにわたる上田城主でした。松平家は先祖を徳川将軍家と同じくする松平氏の一つで、藤井松平氏と呼ばれます。上田城主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号しました。寛文九年(1669年)に亡くなられた忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあります。その京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいました。この御社が当社の起源になります。

明治維新の変革の中、廃藩置県により上田藩も廃されます。国に接収された上田城も間もなく民間へ払い下げとなりました。そして城跡は、急速に桑園・麦畑などに姿を変えていったのです。そのような情勢に中で、旧上田藩士や旧領内有志より、旧藩主松平氏への報恩のため、初代忠山公、二代忠昭公、三代忠周公の御霊璽をあわせてお祀りする神社を、上田城跡に建立したいとの声が起こりました。この動きは、上田城に拠って二度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けたという、真田氏の活躍などで名高い上田城跡を、史跡として後世にまで伝えたい、という願いがあってのことでもありました。そして、上田城本丸跡の所有者となっていた丸山平八郎氏の篤志により、その南半分の地が境内用地として寄附され、松平神社創立願が長野県より許可されたのは、明治十二年(1879年)のことでした。その後、本丸の残りの地も、やはり丸山平八郎氏から松平神社付属の公園用地として寄附され、上田の人々の憩いの場として本丸全域が整備されることになったのです。 真田氏は上田市の象徴でもある上田城を築き、その武略によって上田城の名を高からしめました。仙石氏はその後をうけて上田藩政を発展させるとともに、関ヶ原合戦後破却されていた上田城跡守護の神社として、また、新時代の神社として望ましいのではないか、という声が先の大戦後に起こりました。そして、昭和二十八年(1953年)に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社と改称致しました。しかし、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、初代城主である真田氏の名を冠して、昭和三十八年に眞田神社と再度改称し今日に至っているものです。(頒布資料より)

2.眞田神社の境内

六文銭の旗がたなびく様は絵になります。
神明鳥居
大きな手水舎です
登竜門 登竜門とは、中国の故事が由来で立身出世のための関門とされています。
裏側になるんでしょうか、不落門と書かれてます。徳川の大軍を2度にわたり勝利した「不落城」として知られています。
上田城は徳川の大軍に二度攻められても落ちなったので、受験や就職に落ちないという縁起のいい神社です。
眞田神社の扁額です。
この日は朝一参拝したので、まだ社務所は開いてなかったです。御朱印は9時から対応して頂けます。
本殿
信玄公兜松 天正十七年(1548年)上田原合戦の時、信玄公が真田幸隆と共に兜をかけたと云われています。
真田井戸 この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
伊勢神宮内宮遙拝所 遙拝所とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所のことです。ここから伊勢神宮まで256km
真田信繁公が身に着けたといわれる巨大な鹿角脇立朱塗兜があります。
絵馬の通り抜けがありました。
直接書いて頂ける御朱印は300円、書き置きの御朱印は500円です。節分の御朱印を頂きたかったのですが、既に終了してました。
全部大判サイズの御朱印帳になります。どれも魅力ある御朱印帳です。

3.上田城御城印

上田城の御城印 眞田神社で頂けます。

4.上田城

二の丸橋
北櫓と南櫓、中央が東虎口櫓門 眞田神社の拝殿が見えますね。
親子三代で撮っても面白いですね
北櫓の前には真田石があります。真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田氏に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。
西櫓 雪景色が似合います。
眞田神社から見た西櫓です。
上田城の堀 千曲川の第二段丘上に広がる上田城下町は、ほぼ平坦であるが、東方の城下町が城郭部分よりやや高くなっています。従って、堀の水は城より約4km東を流れる神川から取り入れていました。  現在は、櫓下の芝生広場から地下水を汲み上げて、堀へ供給しています。

5.上田駅

上田駅前には、真田幸村公像があります。時計が旗の形に溶け込んで違和感ないです。
上田駅、観光案内所横には、甲冑が展示されてました。

6.参拝後の感想

以前から参拝したかった眞田神社に来れたので、少し興奮気味でお詣りしました。歴代の上田城主をお祀りしており、過去には上田神社、松平神社と呼ばれ、現在は眞田神社となっております。真田と聞くと真田幸村に付き従った真田十勇士を思い浮かべてしまう私ですが、猿飛佐助や霧隠才蔵などの十勇士は創作(何人かは実在の人物をベースにしている)とは知りませんでした。時間があれば資料館等行きたかったのですが、次回上田に来た際に寄ることにします。

7.地図・アクセス

アクセス:JR北陸新幹線上田駅から徒歩12分

駐車場:上田城跡公園駐車場が基本無料(イベント開催時は駐車禁止)

 

きままにお城巡り~小田原城

本日は、お城巡り第一段として小田原城へ行ってみたいと思います。

御城印は初めてなので、近場の小田原城から行ってみることにします。(登閣日2019年12月1日) 

 

こちらの御城印は、北條早雲顕彰500年を記念したもので2019年12月までの限定となります。
こちらは通常の御城印で摩利支天です。


小田原城(神奈川県小田原市)


神奈川県小田原市にあるお城で難攻不落の城と言われてます。 15世紀の中頃に大森氏によって築城されたと考えられ、その後北条氏が攻略し本拠地としました。そして北条氏は5代100年もの間小田原城を拠点としていましたが、その間防御を固めるため城下は全長9キロに及ぶほどになりました。こうして強固な守りを誇った小田原城ですが、豊臣秀吉に討伐され北条氏は滅亡してしまいます。そして徳川家康に従っていた松平氏の家臣大久保氏が城主となります。その後時は経ち明治に入ると1870年に廃城となりました。 そして廃城の際に城内は解体されましたが、その後1960年より復興が進み天守閣・常盤木門・銅門・馬出門などが再建されました。

お城情報

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された。城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。

北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防衛の要衝として幕末まで存続しました。

明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。

昭和35年(1960) 天守閣復興

昭和46年(1971) 常盤木門再建

平成9年(1997) 銅門復元

平成21年(2009) 馬出門復元

平成28年(2016) 天守閣リニューアル 常盤木門SAMURAI館オープン

1.北條早雲公像

 

北條早雲公(伊勢新九郎長氏のち宗瑞、早雲庵。法名・早雲寺殿天岳瑞公)は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか、伊豆、駿河に勢威を及ぼした小田原北條氏五代の祖である。 「北條記」によれば、明応四年(1495)伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったという。その後小田原は、九十六年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し、東国一の都市に発展した。 終生伊勢姓を名のっていた早雲公の出身地は、京都、あるいは備中、あるいは伊勢ともいわれている。一時、室町幕府に随身していたが、のち駿河へ下って今川氏に身を寄せ、そこで卓抜な才知と果敢な行動力で頭角をあらわし、やがて伊豆、相模の二国を支配する大名になった。そして民政にもよく配慮をしながら、周到な計画性をもって国造り、町づくりをすすめたという。小田原城には嫡男の氏綱公を住まわせ、永正十六年(1519)八月十五日、八八才の天寿を全うして韮山に没した。戦国武将としてはめずらしい長寿であった。また北條姓は二代氏綱公から用いられた。早雲公は、東国の戦国時代の幕を切って落とした一代の風雲児と評され、一般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えている。しかし、伝来の北條家の家訓「早雲寺殿二十一ヶ条」において、早雲公は、身を慎み、礼を重んじ、質素倹約を旨とすべきことを説き、学問、歌道に親しむことを奨励している。実際は聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活においても、つねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。
菩提寺金湯山早雲寺は箱根湯本にあり、当初は早雲公、氏綱公の二代をまつっていたが、その後、氏康公、氏政公、氏直公をも加え、北條五代の霊を合祀している。

2..小田原城散策

学橋からは渡らず、正規ルートの正面入り口に向かいます。
馬出門桝形(うまだしもんますがた)・・・馬出門桝形は馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた範囲をいいます。二つの門は控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門です。馬出門桝形は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの場所に存在したと考えられます。
馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛丈12年(1672)に桝形形状に改修され、江戸時代末期まで存続しました。石垣と土塀で四角く囲んだ桝形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたとみられます
馬出門と内冠木門の間から見た小田原城が小さく見えます。
内冠木門(うちかぶらぎもん) 
松が大胆に右側に寄り掛かってます。
住吉橋を渡り銅門(あかがねもん)へ参ります。
銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉塀によって隔てられています。江戸時代には、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。
渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が施されてます
銅門の内部が特別公開してたので観覧しました。
階段先にある入り口から中に入ります。中は土足禁止です。
中にはボランティアの方でしょうか、説明してくださる方がいます。内部はとてもきれいで床はピカピカです。
中では評定が行われてました。熱い議論が交わされたことでしょう。
写真下の板を上に開けて、攻めてきた敵に石等を落とすしくみです。
反対側から見た銅門
小田原市指定天然記念物のビャクシンです。ビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。
銅門 土塀模型 この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したものです。使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たしました。古い建築の工法を分かりやすく伝えるため小田原市建築共同組合より寄贈を受けたものです。
銅門礎石 この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tもある立派なものです。
本丸東堀跡 江戸時代の小田原城は、本丸を塀が囲んでいました。発掘調査によって、この本丸東堀の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることがわかりました。そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は堀の名残と言えます。
NINJA館(歴史見聞館)
小田原城のイヌマキ イヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます。この木は、幹回り4.5mに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上5mのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。
常盤木門
常盤木門(ときわぎもん) 常盤木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分かっています。元禄16年(1703年)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870年)の小田原城廃城の際に解体撤去されました。常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もそのうちの一本が本丸の「巨松」として残っています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971年)に再建しました。
まことに盤石な構えの門です。
小田原城跡本丸の巨松 天保年間(1830〜1844)に書かれた「相中雑志」には、「御本丸多聞櫓の近き方に七本松という老松あり(以下略)」とありますが、この木はその7本松のうちの1本と推定されます。主幹は少し東に傾いていますが、今もクロマツ特有の優美な姿を保ち、付近の大きな松と共に天守閣を背にして立つ様子は、一幅の絵ともいえます。 以前は、市内のあちこちで美しい松の大木が、人々の目を楽しませてくれましたが、害虫のために次々と姿を消しています。その中で、幸いにして残っているこの松は、今日では、市内で大きさにおいて最大のもので、姿の点でも優れています (小田原市HPより)
現在の天守は複合式層塔型三層四階(内部は地上四階地下一階)、本瓦葺、昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリート造りで復興。天守に付櫓、渡櫓を付した複合式天守で、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられた。
実にきれいなお城で魅了されます。天守閣一般500円
伊勢宗瑞(北條早雲)の特別展が展示されてました。
城内では撮影は禁止ですが、こちらだけはOKです。
天守閣から相模湾を眺望 いや~360°見渡せていい眺めです。

3.常盤木門SAMURAI館

甲冑や刀剣などの武具に特化した展示を行い、武士の精神性や武具の美術性を紹介しています。プロジェクションマッピングも見れます。場所:小田原城址公園内本丸広場  開館時間:午前9時~午後5時(最終入館午後4時30分)入場料:200円 天守閣とセット券なら600円
常盤木門2階展示室
黒漆塗大久保藤蒔絵螺鈿打刀拵(くろうるしぬりおおくぼふじまきえらでんうちがたなこしらえ) 江戸時代 「大久保藤」は、「上り藤に大」紋とも呼ばれ、小田原藩主大久保氏の定紋です。このこしらえは、黒漆に金蒔絵で上り藤に大紋を規則正しく配列し、その間に螺鈿を施したものです。
刀 無銘 江戸時代 文政7年(1824)に浅田兄弟の兄鉄蔵が仇討ちの際に用いたとされる刀です。やや細身で、長さ66.7cm、反り1.7cm、無銘ですが実際に万助と切りあい、切り伏せた刀です。
啄木糸威二枚胴具足(たくぼくいとおどしにまいどうぐそく) 江戸時代初期
鉄黒漆塗六十二間筋兜(てつくろうるしぬりろくじゅうにけんすじかぶと) 室町時代末期
プロジェクションマッピング「花伐つ鎧」思わず見とれてしまいました。十分に見る価値あります。

4.御城印帳

写真の御城印帳は、2019年12月までの限定みたいです。三つ鱗が施され、中はポケットが付いていて御城印をスマートに入れることが出来ます。

5.まとめ

小田原城には今年の4月に報徳二宮神社へ参拝した際に立ち寄り天守閣も登ったのですが、素敵な御城印と御城印帳を購入出来るとあって再び訪れた次第です。Twitterの情報では、銅門の内部を土日無料開放してるとのことで、日曜日に行ってみたら情報通り観覧出来ました。(必ずしも土日開放しているとは限らないので確認お願いします)

摩利支天の御城印もいいのですが、限定の小田原城の字体と三つ鱗の印がかっこよくどうしても手に入れたかったので大変満足しております。この日は初めて御城印帳なるものも手に入れて意気揚々としておりました。お城巡りとなると、神社とは違い数が少なく近場にない場合があるので、神社巡りをして近くにお城があれば、寄っていこうと思います。

6.地図・アクセス

アクセス:小田原駅から徒歩10分

駐車場:近隣のコインパーキングを利用