きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~平河天満宮へ

本日二社目は、東京都千代田区にあります平河天満宮へお参りします。

天満宮ですので、もちろん菅原道真公をお祀りしております。(参拝日2020年1月10日) 

 

平河天満宮の御朱印 一月限定の御朱印で、今年の干支のねずみが押されてます。

平河天満宮(東京都千代田区平河)


半蔵門駅からすぐに鎮座しておりアクセス抜群です。


神社情報

鎮座地:東京都千代田区平河町1-7-5

創建:文明10年(1478年)

ご祭神:菅原道真、誉田別命、徳川家康

ご利益:学業成就、縁結び

社格:旧村社


1.ご由緒

江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(1478年)江戸の守護神として創祀された。慶長十二年(1607年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙己一、蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。現在も学問特に医学芸能商売繁昌等の信仰厚く合格の祈願者も多い。(境内案内より)

2.平河天満宮の境内

平河天満宮の銅鳥居 高さ5メートルにおよぶ鳥居で千代田区内最古の鳥居とのことです。
手水舎で身を清めます
常夜燈 この常夜燈は、本来左右一対ですが、完形で現存するのは一基のみで、もう一基は残存している石材を積み上げて往時をしのばせています。寸法は、高さ3.45メートル、幅・奥行ともに1.26メートルです。材質は安山岩ですが、火袋には花崗岩が、基礎にも新しい石材が使用され、ともに後世に補われたものです。装飾は、火袋の左側面に月(三日月)、右側面に日輪の形が施されており、中台には祭神菅原道真にちなんだ梅林の文様が付いています。
神楽殿
摂末社の三殿宮 大鳥神社(おとりさん)、塩神社(生活の神)、浅間神社(せんげんさん)
平河稲荷神社(商売の神)
百度石とは、百度参りを行うために使用される石標で、百度参りが行われる神社が境内に立て、そこから往復参拝するよう目印としたものです。百度参りは、個人的な心願のため特定の神社に百度参詣を行うことで、最初は百日間にわたり毎日参詣する形でしたが、のちには一日のうちに百度参詣する形に変化したといわれます。ただし、この百度石の場合は、背面に奉納者と思われる多数の人名がありますので、何らかの祈願の結果として建立・奉納されたと思われます。
力石 一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境にあって、若者たちが力試しに用いたと記録されてます。平河天満宮の力石の表面には、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」と刻まれています。
筆塚 使い古した筆の供養のために、筆を地に埋めて築いた塚。
平河天満宮には、五体の石牛、撫牛があります。
拝殿から銅鳥居を見たアングルです。
前足がピンと伸びた狛犬
サーモンピンク色の拝殿が印象的でした。
天満宮と書かれた扁額
拝殿前、右側に布袋像があります。
社務所近くにある縁結びの梅 二つのペアで梅の実がなることから縁結びや恋愛成就の御利益があるとされています。
こちらの社務所で御朱印頂きました。初穂料500円
御朱印を頂くと梅鉢社紋入りの挟み紙と社紋の形をした煎餅を頂けました。

3.参拝後の感想

御朱印を頂くともれなく煎餅(梅鉢の社紋の形)を頂けるのですが、これまた美味しい煎餅でもう一枚食べたくなりました。御朱印を頂くようになって思うのですが、御朱印関係なく神社へお参りするのも、もちろんいいのですが、こうやって何月何日にお参りしたと分かる御朱印は記憶にも記録にも残るので、御朱印帳を開くたびに、この日はこの神社とこの神社お参りしたんだったなぁと振り返るのも楽しみの一つです。次はどこにお参りして御朱印を頂こうかなと毎回わくわくしております。

4.地図・アクセス

アクセス:東京メトロ半蔵門線「半蔵門」駅下車 徒歩1分

     東京メトロ有楽町線「麹町」駅下車 徒歩5分

     

 

 

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~櫻田神社

本日は、東京都港区の櫻田神社へお参りします。都会のオアシス的な神社で、こんなところにあるなんてと思う神社でもあります。(参拝日2020年1月10日)   

 

こちらの神社は新撰組の沖田総司がお初参りしたと伝えられています。他には陸軍軍事である乃木希典(のぎまれすけ)もここでお初参りしたそうです。
櫻田神社の御朱印 左下に霞山の印があります 創建当時は霞山稲荷明神と崇められていたそうです。
港七福神 寿老神


櫻田神社(東京都港区)


東京港区の櫻田神社へお参りします。


神社情報

鎮座地:東京都港区西麻布3-2-17

創建:治承四年(1180年)

ご祭神:豊宇迦能賣神(とようかのうめかみ)

ご利益:農業、漁業、衣食住の諸産業、開運招福、厄除け

社格:旧村社


1.ご由緒

治承四年(1180)源頼朝の令により霞山桜田明神として霞ヶ関桜田門外に鎮座。寛永元年(1624)には現在の場所に遷られた。文治五年(1189)頼朝公が30貫の田畑を寄進、一般農家の田と区別するため、御神田の畔に桜を植えたのが「桜田」の由来という。(東京都神社庁より引用)

2.櫻田神社の境内

道路沿いにいきなり現れたという印象でした。
神明鳥居をくぐり中へ入っていきます。
細長い参道を歩きます。風情があります。
前足がぐっと前にのびたような特徴ある狛犬
手水舎で身を清めます
二の鳥居
社伝によると、治承四年(1180)に源頼朝の命で、渋谷重国(渋谷地名の由来)が桜田郷に創建した「霞山桜田明神」が起源。渋谷重国が山を焼いて狩りをしようとすると、白狐が現れ万丈の気を吐いたところ、そこから十一面観音が現れたそうです。これを源頼朝に申し上げ、頼朝の令により稲荷社を勧請し創建したと伝わっています。戦国時代に社殿は破損したが、文明年間(1469~1487年)に太田道潅(江戸城城主)が再興し、寛永元年(1624年)の現在の地に遷宮しました。田の印に桜を植えたことから桜田と呼ばれ、旧町名桜田町、霞町の名の由来と言われています。
境内社の福寿稲荷社 港七福神の寿老神をお祀りしてます。
こちらの社務所で各種頂けます。

3.御朱印帳

限定御朱印帳です。三種類の御朱印としおりが入っております。初穂料3,000円
日付は令和二年正月

4.参拝後の感想

こちらの神社は六本木ヒルズにもほど近い場所です、うっかりしてると通り過ぎてしまいそうになりました。今回は限定で授与される御朱印帳がどうしても手に入れたくて参拝しました。新撰組の沖田総司がお初参りしたとされる神社でゆかりの地として御朱印帳がだんだら模様になっております。桜もあしらわれてデザインが秀逸なのでお気に入りの御朱印帳が増えて満足しております。どんな神社だろうと調べてみると歴史ある神社で、源頼朝、渋谷国重、太田道灌と歴史上の人物が関わった神社なんだと勉強になりました。白狐の伝説も興味深く参拝出来て良かったです。

5.地図・アクセス

アクセス:東京メトロ日比谷線 六本木駅、都営地下鉄大江戸線 六本木駅 徒歩約7分

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~兵主神社

2020年最初のお参りは、大阪府岸和田市に鎮座してます兵主(ひょうず)神社へ行ってきました。元旦にお参りしたので大勢の方で賑わってました。(参拝日2020年1月1日) 

 

兵主神社の御朱印です。お正月の特別御朱印で鶴なのかなと思っていたら、年中こちらの御朱印だそうです。

兵主神社(大阪府岸和田市)


大阪府岸和田市に鎮座してます兵主神社へ令和二年初参りです。


神社情報

鎮座地:大阪府岸和田市西之内町1-1

創建:年代不詳

ご祭神:天照皇大神、八幡大神、菅原道真公

ご利益:五穀豊穣、子孫繁栄、家運隆昌、交通安全、学芸上達


1.ご由緒

延喜式内社。旧掃守郷の総社で西之内、上松、下松、尾生など近隣十二か村を氏子区域とし禰宜一人ずつを出して当社に奉仕していたという天正年間に社殿が焼失した後、各村はそれぞれ氏神を勧請したため以後は西之内村のみで祭祀した。ただ雨降りの神として崇敬を受けていたため、早天の際の祈雨祭には従前の十二か村から庄屋年寄が出仕したという社殿は、豊臣秀吉の再建と伝え国重文明治六年に郷社に列格し兵主神社と改称。同四十二年に下松村の八幡神社、菅原神社、厳島神社を合祀し、両村で奉仕し今日に至る。(境内案内より)

2.兵主神社の境内

きれいに整備された参道を歩きます。
お参り前に手水舎で身を清めます
兵主神社には、社宝として室町~江戸前期の能面9面などが伝えられています。これは「雨降りの面」と呼ばれ、雨乞いの際に演じられた能に用いられたものです。
普段は静かな境内ですが、元旦にお参りしたので大勢の方がいらっしゃいました。
天照皇大神、八幡神、菅原道真公をご祭神とする延喜式内社
拝殿前に大きな絵馬が立っています。近くの高校の美術部が奉納したものです。
龍王神社
三宝荒神社
牛神社
牛の像がひっそりとあります。
稲荷神社
大宮戎神社
厳島神社

3.参拝後の感想

令和二年最初のお参りは兵主神社。お正月だと人が混んでいて個人的にゆっくりお参り出来ないので避けているのですが、こちらの神社は境内が広めでゆったりとしており、参拝者は多かったですが、そこまで混んだ感じはしなかったです。
御朱印は鶴のスタンプで新年から縁起がいいですね。末社が六社もあり全部お参りしましたが、なかなかのボリュームです。                  末社の中に牛神社があり、その横に八幡宮でよく見かける牛の像がありました。気分よく参拝でき、今年一年いいスタートがきれそうです。

4.地図・アクセス

アクセス:南海本線和泉大宮駅から徒歩20分

駐車場:境内に駐車場あります。

境内も広めで、車も駐車出来ます。

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~建勲神社へ

令和元年の締めくくりは、京都に鎮座してます建勲神社へお参りします。こちらの神社は、織田信長公をお祀りしており、刀剣の聖地でも知られています。現在筆者は刀剣乱舞にはまり中です。(参拝日2019年12月30日)  


建勲神社(京都府京都市北区)


木造の明神鳥居が荘厳な雰囲気を醸し出してます。


神社情報

鎮座地:京都府京都市北区柴野北舟岡町49

創建:明治2年(1869年)

ご祭神:織田信長公

ご利益:大願成就、難局突破、開運、産業指導の神、災難除け

社務所受付:9時~17時


1.ご由緒

織田信長を祀る神社で、建勲は通称「けんくん」神社と呼ばれる。正式には「たけいさお」

天下を統一した信長の偉勲を称え、明治二年(1869)に明治天皇により創建された。同八年(1875)、別格官弊社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。

船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武(北の神)として造営の基準点にされたという場所で、本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を受け、主君である信長の廟所と定めている。

信長着用の紺糸威胴丸(こんいとおどしどうまる)、桶狭間の合戦で信長が戦利品として持ち帰った義元左文字と称される太刀、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。

十月十九日の船岡祭は、祭神・織田信長が永禄十一年(1568)に初めて入洛した日を記念したものである。

2.御朱印

通常御朱印です。
天下布武龍章御朱印です。挟み紙の「でかした」がいいですね。
敦盛御朱印 信長が好んだ敦盛の一節は、平敦盛の場面を詠んだのではなく、その平敦盛を討った熊谷直実が出家する際の気持ちが語られてます。

3.刀剣御朱印

薬研藤四郎(やげんとうしろう)御朱印 粟田口藤四郎吉光の短刀は切れ味抜群であるが、主人の腹は切らないという言い伝えがある。
へし切長谷部(へしきりはせべ)御朱印 長谷部国重の作 織田信長の愛刀 観内(かんない)という茶坊主が失敗を犯した。信長は手打ちにしようと追いかけたが、観内は台所の御膳棚の下に隠れたという。棚の下では刀を振り上げて切ることができず、仕方なく棚の下に刀を差し入れあてたところ、たいして力を入れることもなく胴体ごと「圧へし切って」しまったという。恐ろしいほどの切れ味の名刀。

4.御朱印帳・絵馬

 

天下布武の御朱印帳 大判サイズになります。18×12cm
裏はこんな感じです。シンプルながらも信長の文字が存在感あります。
こちらも大判タイプで宗三左文字(ピンク)仕様です。宗三左文字は、義元左文字の名で重要文化財に指定されてます。
見開きの御朱印帳以外はカバーは付いてません。
見開きの御朱印帳 大きさは26×18cm ビニールカバー付いてます。実に豪華な御朱印帳です。
裏面は天下布武御朱印帳と同じと思いきや、薬研藤四郎がありました。
絵馬は三種類あって、一番かっこよかった敦盛の絵馬にしました。

5.建勲神社の境内

大鳥居をくぐり左側から進んでいきます。
階段をのぼった先には、「大平和敬神」神石があります。
結構急な階段が続きます
後ろを振り返ってみると京の街並みが見えます。
右奥に見えるのが貴賓館です。立派な社号標が建ってます。
何気にこの案内図が分かりやすく、それぞれの位置を把握出来ました。
敦盛「歌碑」 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか  桶狭間の合戦出陣に際し織田信長公が舞われた「敦盛」の一節を刻んだ歌碑。
切妻造檜皮葺の手水舎で身を清めます
こんなパネルもありました。
たくましい狛犬の視線を感じつつ拝殿へ向かいます。
拝殿 内側に織田信長公三十六功臣のうち十八功臣の額が飾られてます。
御神木らしき木だったので一枚
神門(祝詞舎)
後ろに見えるのが本殿で、その前に位置してます。
ここまで結構階段のぼりました。
大鳥居を真っすぐ進む階段をあがると義照稲荷神社へと続いてます。
末社義照稲荷神社 建勲神社側から来るとこちらの参道に辿り着きます。ご祭神は、宇迦御霊大神(うかのみたまのおおかみ)、国床立大神(くにとこたちのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の三柱の大神を祀る。
稲荷命婦元宮 
右側に見えるのが比叡山です。

6.参拝後の感想

今回は帰省途中に京都に立ち寄り参拝しました。当日は天気心配でしたが、何とかもってくれて良かったです。以前からこちらの御朱印帳(天下布武)と敦盛の御朱印を拝受したかったので、手に入れることが出来て満足してます。他についついあれもこれも手を伸ばしてしまいました。人気のある神社ですので参拝される方が後を絶たない感じで、神職の方が御朱印を一つ一つ丁寧に書いて下さるので、行列が出来るときもしばしばあるみたいです。時間があれば刀剣巡りをしたかったのですが、また次回に取っておきます。京都には魅力ある神社が数多くあるので、腰を据えてゆっくり巡りたいものです。

7.地図・アクセス

アクセス:市バス「建勲神社前」または「船岡山」バス停にて下車

駐車場:近隣のパーキングを利用

8.昼食

昼食は建勲神社近くにある北京亭で頂きました。写真撮り忘れたのですが、チャーハンが鉄鍋のまま出てきてびっくりしました。店内はジャズが流れていて落ち着いた雰囲気でした。

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~バイクに乗って富岡八幡宮へ

本日は、横浜市金沢区に鎮座してます富岡八幡宮にお参りします。この日は、金沢区のKAWASAKI PLAZAの試乗会があったので、その帰りに立ち寄ってみました

富岡八幡宮の御朱印です。初穂料300円

富岡八幡宮(神奈川県横浜市金沢区)


鎌倉幕府の鬼門除けとして祀られた神社です。八幡宮の山が応長元年の大津波から富岡を守ってくれたので「波除八幡」とも呼ばれています。


神社情報

鎮座地:神奈川県横浜市金沢区富岡東4-5-41

創建:建久二年(1191年)

ご祭神:応神天皇、蛭子神、天照皇大神

ご利益:商売繁盛、家内安全、交通安全、鬼門祓

社格:旧村社


1.ご由緒

当宮はおよそ八百年前、建久二年(1191)に源頼朝公が当郷鎮護の為摂津の西宮の恵比寿様をお祀りしたのが始めで、のち安貞元年(1227)には八幡大神を併せ祀り、社名も八幡宮と改めました。

鎌倉からはちょうど鬼門の方角に当たる海に面した小山に祀られていて、社も鬼門を向いており、鎌倉幕府の厄災防除の神としても祀られた神社です。また八幡宮の山が応長(1311)の大津波から部落を守った事から『波除八幡(なみよけはちまん)』とも称ばれ、広く江戸方面からも信仰を集め、深川・富岡八幡宮へ御分霊された事は有名です。 

祭礼は、7月(旧暦6月15日)と9月(旧暦8月25日)のニ季があり、いずれも「祇園舟」「湯立神楽」など鎌倉時代より八百年以上も継承されている特殊神事があります。

社殿の造営は、天正・慶長・寛永などの棟札に、鶴岡八幡宮造営に併せ、また破損の度に時の地頭が行った事が記されています。寛永1年~寛永3年の鶴岡八幡宮の造営に際し、漆塗りの本殿の扉を拝戴し、当宮本殿内陣の扉として移設されています。現在の本殿は天正14年(桃山時代)の建築で、平成14年の造営により覆殿(おおいでん)を復興し、柿葺(こけらぶき)の屋根・丹塗(にぬり)の社殿など、桃山時代の姿に蘇りました。(HPより引用)

2.富岡八幡宮の境内

駐車場から表参道の道を進むと、こちらの鳥居に辿り着きます。この鳥居のある辺りは、昔は海だったそうです。
手水舎で身を清めてからお参りします。
祇園舟は富岡八幡宮に伝わる特殊神事で、古来、旧暦六月十五日に行われていた夏越の祓の神事で、市の東南端海岸部に伝わる類似の行事の中でも最も古い伝承を持つ行事です。 青茅で作った長さ70センチ、幅50センチほどの楕円形の舟にお供え物として折敷に小麦の粒を敷き、その上に大麦の粉で作っただんごを置き、麦麹で醸した甘酒をかけたものを乗せ、舟縁には一年分十二本の御幣を並べ立て、中央には大きな御幣を並べ立てて、沖合遠く流します。青茅の舟と御幣に一年間の罪穢を託して流し遣る夏越の祓と、収穫した麦の初穂を海の神にお供えし、五穀の豊穣と海の幸の豊漁に感謝する要素が一緒になったものといわれます。 八幡丸・弥栄丸と呼ばれる二隻の艪舟で行われ、沖合の潮の流れのよいところまで進むと二隻の間から茅舟を放流し、帰ろは岸まで全速力の競漕で帰る勇壮なもので、宮の前が埋め立てられた今日でも優雅な雅楽の音とともに昔ながらにとり行われ、無形民俗文化財として貴重です。(横浜市教育委員会掲示より)
蛭子命(ひるこのみこと)と聞くと誰ですかとなりますが、えびす様です。蛭子命は、「古事記」では、伊耶那岐命(イザナギ)と伊耶那美命(イザナミ)との間に生まれた最初の神であります。蛭子は、イザナミの方から男性のイザナギを誘ったために、不具として生まれたと記されてます。
稲荷社
祖霊社
神域・・・海の岩が二個祀られております。
頼朝公が地震や津波を危惧して、丘の上に建てたと伝えられております。広く江戸方面からも信仰を集め 深川 富岡八幡宮へ御分霊されました。
扁額には正八幡と書かれてます
ガラス張りの拝殿・本殿は珍しいですね。
少し葉が落ちかかってましたが、見事な銀杏の御神木です。
こちらの社務所で御朱印頂けます。

3.参拝後の感想

KAWASAKI PLAZA金沢店から近かったので帰りに寄ってお参りしました。境内はきれいに管理されて小高い丘の上もあってか清々しい空気に感じました。祇園舟という800年以上続いている特別な神事があり、その年の罪やけがれを茅舟(かやぶね)に託して海に流し、すがすがしい気持ちで夏を迎えられるという。そんな伝統ある行事を一度見てみたいものです。

話は少し変わりますが、日本古来から伝わる伝統行事には、お正月、節分、雛祭り、お盆といった行事がありますが、年々参加人数が減っている傾向で、逆に海外の行事(クリスマス、バレンタイン、ハロウィン)が増えているということを耳にします(企業による宣伝効果が大きいのもあります)。確かに海外の行事は華やかで楽しい面が多いです。日本の伝統行事が薄れていくのは、何だか寂しく思います。筆者自身も少しでも行事に触れるようにして、伝統ある行事を大切にしていきたいと参拝を通して感じました。

4.地図・アクセス

アクセス:

京浜急行 京急富岡駅 徒歩8分

シーサイドライン 並木北駅 徒歩10分

駐車場:無料駐車場有り(表参道と裏参道の案内がありますがお好きな方からお参りください)

裏参道はこちらの鳥居を通り階段を上がっていきます。
もちろんバイクも駐輪出来ます。

 

 

 

きままにお城巡り~小田原城

本日は、お城巡り第一段として小田原城へ行ってみたいと思います。

御城印は初めてなので、近場の小田原城から行ってみることにします。(登閣日2019年12月1日) 

 

こちらの御城印は、北條早雲顕彰500年を記念したもので2019年12月までの限定となります。
こちらは通常の御城印で摩利支天です。


小田原城(神奈川県小田原市)


神奈川県小田原市にあるお城で難攻不落の城と言われてます。 15世紀の中頃に大森氏によって築城されたと考えられ、その後北条氏が攻略し本拠地としました。そして北条氏は5代100年もの間小田原城を拠点としていましたが、その間防御を固めるため城下は全長9キロに及ぶほどになりました。こうして強固な守りを誇った小田原城ですが、豊臣秀吉に討伐され北条氏は滅亡してしまいます。そして徳川家康に従っていた松平氏の家臣大久保氏が城主となります。その後時は経ち明治に入ると1870年に廃城となりました。 そして廃城の際に城内は解体されましたが、その後1960年より復興が進み天守閣・常盤木門・銅門・馬出門などが再建されました。


お城情報

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された。城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。

北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防衛の要衝として幕末まで存続しました。

明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。

昭和35年(1960) 天守閣復興

昭和46年(1971) 常盤木門再建

平成9年(1997) 銅門復元

平成21年(2009) 馬出門復元

平成28年(2016) 天守閣リニューアル 常盤木門SAMURAI館オープン

1.北條早雲公像

 

北條早雲公(伊勢新九郎長氏のち宗瑞、早雲庵。法名・早雲寺殿天岳瑞公)は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか、伊豆、駿河に勢威を及ぼした小田原北條氏五代の祖である。 「北條記」によれば、明応四年(1495)伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったという。その後小田原は、九十六年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し、東国一の都市に発展した。 終生伊勢姓を名のっていた早雲公の出身地は、京都、あるいは備中、あるいは伊勢ともいわれている。一時、室町幕府に随身していたが、のち駿河へ下って今川氏に身を寄せ、そこで卓抜な才知と果敢な行動力で頭角をあらわし、やがて伊豆、相模の二国を支配する大名になった。そして民政にもよく配慮をしながら、周到な計画性をもって国造り、町づくりをすすめたという。小田原城には嫡男の氏綱公を住まわせ、永正十六年(1519)八月十五日、八八才の天寿を全うして韮山に没した。戦国武将としてはめずらしい長寿であった。また北條姓は二代氏綱公から用いられた。早雲公は、東国の戦国時代の幕を切って落とした一代の風雲児と評され、一般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えている。しかし、伝来の北條家の家訓「早雲寺殿二十一ヶ条」において、早雲公は、身を慎み、礼を重んじ、質素倹約を旨とすべきことを説き、学問、歌道に親しむことを奨励している。実際は聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活においても、つねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。
菩提寺金湯山早雲寺は箱根湯本にあり、当初は早雲公、氏綱公の二代をまつっていたが、その後、氏康公、氏政公、氏直公をも加え、北條五代の霊を合祀している。

2..小田原城散策

学橋からは渡らず、正規ルートの正面入り口に向かいます。
馬出門桝形(うまだしもんますがた)・・・馬出門桝形は馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた範囲をいいます。二つの門は控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門です。馬出門桝形は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの場所に存在したと考えられます。
馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛丈12年(1672)に桝形形状に改修され、江戸時代末期まで存続しました。石垣と土塀で四角く囲んだ桝形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたとみられます
馬出門と内冠木門の間から見た小田原城が小さく見えます。
内冠木門(うちかぶらぎもん) 
松が大胆に右側に寄り掛かってます。
住吉橋を渡り銅門(あかがねもん)へ参ります。
銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉塀によって隔てられています。江戸時代には、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。
渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が施されてます
銅門の内部が特別公開してたので観覧しました。
階段先にある入り口から中に入ります。中は土足禁止です。
中にはボランティアの方でしょうか、説明してくださる方がいます。内部はとてもきれいで床はピカピカです。
中では評定が行われてました。熱い議論が交わされたことでしょう。
写真下の板を上に開けて、攻めてきた敵に石等を落とすしくみです。
反対側から見た銅門
小田原市指定天然記念物のビャクシンです。ビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。
銅門 土塀模型 この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したものです。使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たしました。古い建築の工法を分かりやすく伝えるため小田原市建築共同組合より寄贈を受けたものです。
銅門礎石 この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tもある立派なものです。
本丸東堀跡 江戸時代の小田原城は、本丸を塀が囲んでいました。発掘調査によって、この本丸東堀の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることがわかりました。そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は堀の名残と言えます。
NINJA館(歴史見聞館)
小田原城のイヌマキ イヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます。この木は、幹回り4.5mに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上5mのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。
常盤木門
常盤木門(ときわぎもん) 常盤木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分かっています。元禄16年(1703年)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870年)の小田原城廃城の際に解体撤去されました。常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もそのうちの一本が本丸の「巨松」として残っています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971年)に再建しました。
まことに盤石な構えの門です。
小田原城跡本丸の巨松 天保年間(1830〜1844)に書かれた「相中雑志」には、「御本丸多聞櫓の近き方に七本松という老松あり(以下略)」とありますが、この木はその7本松のうちの1本と推定されます。主幹は少し東に傾いていますが、今もクロマツ特有の優美な姿を保ち、付近の大きな松と共に天守閣を背にして立つ様子は、一幅の絵ともいえます。 以前は、市内のあちこちで美しい松の大木が、人々の目を楽しませてくれましたが、害虫のために次々と姿を消しています。その中で、幸いにして残っているこの松は、今日では、市内で大きさにおいて最大のもので、姿の点でも優れています (小田原市HPより)
現在の天守は複合式層塔型三層四階(内部は地上四階地下一階)、本瓦葺、昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリート造りで復興。天守に付櫓、渡櫓を付した複合式天守で、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられた。
実にきれいなお城で魅了されます。天守閣一般500円
伊勢宗瑞(北條早雲)の特別展が展示されてました。
城内では撮影は禁止ですが、こちらだけはOKです。
天守閣から相模湾を眺望 いや~360°見渡せていい眺めです。

3.常盤木門SAMURAI館

甲冑や刀剣などの武具に特化した展示を行い、武士の精神性や武具の美術性を紹介しています。プロジェクションマッピングも見れます。場所:小田原城址公園内本丸広場  開館時間:午前9時~午後5時(最終入館午後4時30分)入場料:200円 天守閣とセット券なら600円
常盤木門2階展示室
黒漆塗大久保藤蒔絵螺鈿打刀拵(くろうるしぬりおおくぼふじまきえらでんうちがたなこしらえ) 江戸時代 「大久保藤」は、「上り藤に大」紋とも呼ばれ、小田原藩主大久保氏の定紋です。このこしらえは、黒漆に金蒔絵で上り藤に大紋を規則正しく配列し、その間に螺鈿を施したものです。
刀 無銘 江戸時代 文政7年(1824)に浅田兄弟の兄鉄蔵が仇討ちの際に用いたとされる刀です。やや細身で、長さ66.7cm、反り1.7cm、無銘ですが実際に万助と切りあい、切り伏せた刀です。
啄木糸威二枚胴具足(たくぼくいとおどしにまいどうぐそく) 江戸時代初期
鉄黒漆塗六十二間筋兜(てつくろうるしぬりろくじゅうにけんすじかぶと) 室町時代末期
プロジェクションマッピング「花伐つ鎧」思わず見とれてしまいました。十分に見る価値あります。

4.御城印帳

写真の御城印帳は、2019年12月までの限定みたいです。三つ鱗が施され、中はポケットが付いていて御城印をスマートに入れることが出来ます。

5.まとめ

小田原城には今年の4月に報徳二宮神社へ参拝した際に立ち寄り天守閣も登ったのですが、素敵な御城印と御城印帳を購入出来るとあって再び訪れた次第です。Twitterの情報では、銅門の内部を土日無料開放してるとのことで、日曜日に行ってみたら情報通り観覧出来ました。(必ずしも土日開放しているとは限らないので確認お願いします)

摩利支天の御城印もいいのですが、限定の小田原城の字体と三つ鱗の印がかっこよくどうしても手に入れたかったので大変満足しております。この日は初めて御城印帳なるものも手に入れて意気揚々としておりました。お城巡りとなると、神社とは違い数が少なく近場にない場合があるので、神社巡りをして近くにお城があれば、寄っていこうと思います。

6.地図・アクセス

アクセス:小田原駅から徒歩10分

駐車場:近隣のコインパーキングを利用

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~バイクに乗って雷神社へ

本日二社目は、横須賀市の雷神社へお参りします。ご祭神は火雷命で、人の生業にかかわる禍から人々を守って戴けるありがたい神様です(参拝日2019年11月7日)

 

時間をかけて丁寧に書いて頂けました。龍が現れ雷鳴が轟く迫力ある御朱印です。

雷神社(神奈川県横須賀市追浜)


横須賀市追浜に鎮座しております雷神社へお参りします。


神社情報

鎮座地:神奈川県横須賀市追浜本町1-9

創建:承平元年(931年)と伝えられている

ご祭神:火雷命(ほのいかづちのみこと)

ご利益:災難除け、雨乞い、身代わり守護、交通災害除け、厄除け開運等


1.ご由緒

創立の詳細は定かではありませんが、朱雀天皇の御宇承平元年(931年)の勧請と伝えられ、鹽濱(しおはま)に鎮座していました。
永禄二年(1559年)築島に落雷があり、その場にお籠りをしていた十二名の乙女たちは柏槇(びゃくしん)の大木が身代わりとなって一命を取り留めると云う言い伝えがあります。江戸時代は奥の院と呼ばれ、昭和三十五年頃までは元宮の社殿が建っていました。現在は御神木のみが祀られています。
天正九年(1581年)時の領主朝倉能登守が御朱印を賜り現在の地(追浜本町一丁目)に遷座し、宝永四年(1707年)九月九日酒井雅楽守が武運長久・郷内災難除けを祈願して社殿の再建を行っています。また、寛政十一年(1799年)七月十六と二十二日に郷村挙げて雨乞いの祈祷が行われ、御神威が得られたと記録にあります。

2.雷神社の境内

神明鳥居
手水舎
鳥居後ろにある銀杏の木が立派です。色づく季節にはガラッと印象も変わるみたいです。
雷神社の読み方は、本来は「いかづちじんじゃ」と発音されるのが御祭神に相応しい発音ですが、地元の氏子崇敬者の方々は「いかづち」と言わずに「かみなりじんじゃ」と親しみをもって呼ばれます。また、振り仮名など読み方を指定された資料もないままに、いつの頃からk「かみなりじんじゃ」と申し上げるようにもなっています。
大銀杏 樹齢約500年、幹の周り4.2m 境内には大銀杏が三本あり、平成七年には三浦半島古木銘木五十選に指定してます。垂れ下がる乳頭は安産や子育ての信仰対象ともなっています。
右側の狛犬の鼻が割れてるような感じでした
現在の社殿は、昭和三十三年(1958年)三月浄財募金によって竣工いたしました。
鉄筋コンクリート製の社殿です。
古くは「雷電社」「雷電大明神」と記録にみられ、「雷神宮」の扁額が社殿内に掲げられていたと伝わっています。
拝殿左側に稲荷社があります。
こちらの慰霊碑は飛行艇隊戦没者の英霊をお祀りしています。
摂社 浜空神社・・・昭和十一年十一月富岡(現富岡公園内)に横浜航空隊が開設され、飛行艦隊の守護神として昭和十三年「鳥船神社」が創建されました。戦後に至り、その功績と戦没者の慰霊の誠を捧げむと、昭和五十六年六月「鳥船神社」跡地に「浜空神社」として新たに戦没者並びに戦後物故者二千有余柱の英霊をお祀りされました。殊に、昭和十七年八月ソロモン海戦最前線のツラギに進攻せし三百三十八名の飛行艦隊員は、壮絶なる玉砕を遂げるにあたり、ここに合わせて御魂が合祀されております。戦後六十三年の歳を重ねるに、世話人の高齢化により維持困難ということとなり、追浜航空隊甲飛会のご尽力により平成二牛年六月ご社殿を此の地に遷座し、追浜航空隊戦没者並びに物故者の英霊ともども永遠にお祀りいたす事となりました。
境内は落ち着きがあり何だかほっとする空間に感じました。
授与所です。御朱印代300円

3.参拝後の感想

最初神社に着いた時は、誰もいなくて授与所の中にもいない様子でした、今日は御朱印頂けないかなと思いつつ、参拝をして階段を降りて授与所へ、すると授与所から神職の方が出てこられたので、すかさず御朱印お願い致します。時間をかけて丁寧に書いて頂き素敵な御朱印を有難うございます。神社名がスタンプの時もあると情報がありましたが、手書きで良かったです。瀬戸神社からも近いので併せてお参りされてみてはいかがでしょうか。

4.地図・アクセス

アクセス:京急追浜駅下車、16号線を横浜方面徒歩約5分

駐車場:境内に駐車場がありますが、私が参拝したときは入り口が閉まっていたので参拝の際は要確認お願いします。

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~バイクに乗って瀬戸神社・琵琶嶋神社へ

本日は、横浜市金沢区の瀬戸神社・琵琶嶋神社へお参りします。こちらの神社は金沢八景駅からも近くひっきりなしに参拝される方がいます。金沢八景の風光を今に留める、源頼朝・政子ゆかりの神社です。(参拝日2019年11月7日) 

瀬戸神社の御朱印 三島大明神と書かれてます
琵琶嶋神社の御朱印 弁財天と書かれてます。同じ人が書かれたのに瀬戸神社とは対照的ですね~


瀬戸神社(神奈川県横浜市金沢区)


元来、この地は入海の瀬戸(狭い海峡)で干満時に急流となり、海上交通の難所であったため、5~6世紀の頃から海神を祀っていたようです。 この霊地に源頼朝が挙兵に際して戦勝を祈願して、伊豆三島明神を勧請したのが瀬戸神社の始まりです。


神社情報

鎮座地:神奈川県横浜市金沢区瀬戸18-14

創建:治承4年(1180年)

ご祭神:

大山祇命   ( おおやまつみのみこと )・・・主祭神
速須佐之男命   ( はやすさのおのみこと )・・・配祀神
菅原道真   ( すがわらみちざね )・・・配祀神
徳川家康   ( とくがわいえやす )・・・合祀神
伊邪那岐命   ( いざなぎのみこと )・・・合祀神
伊邪那美命   ( いざなみのみこと )・・・合祀神
速玉男命   ( はやたまおのみこと )・・・合祀神
天照皇大神   ( あまてらすすめおおみかみ )・・・合祀神
倉稲魂命   ( うかのみたまのみこと )・・・合祀神
菊理比売命   ( くくりひめのみこと )・・・合祀神
木花咲耶姫命   ( このはなさくやひめのみこと )・・・合祀神
味耜高彦根命   ( あじすきたかひこねのみこと )・・・合祀神
建御名方命   ( たけみなかたのみこと )・・・合祀神
猿田彦命   ( さるたひこのみこと )・・・合祀神
 

ご利益:交通安全・旅行安全・商売繁盛・災厄消除・病気平癒・学問・文芸他


1.ご由緒

大昔、今日の泥亀町から釜利谷東一帯は大きな入江でした。この入江と平潟湾とは、今日の瀬戸橋の位置にあたる狭い水路状の海峡でつながっていました。そしてこの小さな海峡は、潮の干満の度に内海の海水が渦を巻いて出入りする「せと」でした。古代の人は水流の険しい「せと」を罪穢れを流し去ってしまう神聖なところであるとして、豊な幸をもたらしてくれる神々をここに祭りました。これが瀬戸神社の起源で、発掘された祭祀遺物などから古墳時代に遡るころと考えられます。 鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、伊豆での挙兵にあたって御利益を蒙った伊豆三島明神(三島大社)の分霊をこの「せと」の聖地に祭り、篤く信仰しました。社殿の造営もおこなわれ、今日のような神社の景観ができ上がったのは概ねこの頃のことです。以後、金沢(六浦)の地は港町として発展し、鎌倉と関東一円を東京湾や利根川を水系利用して結ぶ水上物流n集散地となりましたから、執権北条氏、ことに金沢に居を構えた金沢北条氏、また関東管領足利氏や小田原北条氏の崇敬も篤いものがありました。ことに江戸時代には徳川家康は車両百石を寄進しています。そして武家のみならず、名勝金沢八景の中心の神社として江戸の町民にまで広く崇敬者はひろがり、文人墨客も多く当社を訪れました。

2.瀬戸神社の境内

琵琶嶋神社から見た瀬戸神社です
瀬戸神社は鎌倉時代から伝わる多くの文化財が保存されており、なかでも北条雅子が奉納したといわれている陵王・抜頭の二面の「舞楽面」は、国の重要文化財にも指定されています
鳥居すぐ横に大きなクスノキがあります
手水舎で身を清めます
目がぱっちりとしてますね
権現造りの社殿は、1800年に建立されたものです。
扁額の形がかっこいいです
本殿と拝殿の2棟を一体化し間に石の間という一段低い建物を設けた権現造りの社殿は寛政12(1800年)年の建立。
裏手は崖になっており、掘られた岩場にお稲荷様がいます
祖霊社 祭神は氏子・崇敬者の祖霊
右末社 祭神は大雷神、高龗神
左末社 祭神は石長比売命、木花咲耶比売命
青麻宮 祭神は大己貴命、少名彦命
境内に横たわる「蛇混柏」(じゃびゃくしん)は延宝八年(1680年)の大風で倒れて以来、今日まで朽ちずに残っています。新編鎌倉志・江戸名所図絵などにも「蛇混柏」と称した名木で、金沢八木の一つである。
おそるおそる中はどうなっているんだろうと覗いてみると、空洞ですが迫力ありました、花びらみたいな形で、よくこの形で朽ち果てないで残っているもんだと感心しました。
社務所は建て替え中で、写真は仮の社務所です。

3.琵琶嶋神社の境内

源頼朝公が当社参拝の折、この石に服を掛け海水で禊祓したので服石とも呼ぶ。福石の前で何かをひろうと福を授かるといわれてます。
琵琶嶋神社は金沢八景の一つである「瀬戸の秋月」の夜景を今に伝えるところで、島の形が琵琶ににていることから琵琶島と呼ばれています。
立ち姿の御神像と頼朝・政子が流人の身から征夷大将軍に立身出世したことに因み、立身出世弁財天と呼ばれます。
まっすぐのびた参道をゆっくり歩いていきます。
社前には小さな橋があり、海と松が情緒を醸し出してくれます。
すぐ側にはシーサイドラインが走っております
弁天島の琵琶嶋神社・・・祭神は市杵島姫命(いちきしまひめ)、通称弁天様とよばれ、音楽・技芸の神です。この社は源頼朝の夫人政子が、近江の竹生島弁財天を勧請したものです。
幅にして60mほどの小さい島ですが、なかなか見応えあります。
琵琶島には混柏(びゃくしん)の枯れた幹が多数残ってます

4.参拝後の感想

源頼朝が三島明神を勧請し、夫人政子は竹生島弁財天を勧請する、鎌倉時代の深い繋がりを感じることができる場所です。個人的に海沿いの神社が好きなので、こちらの瀬戸神社・琵琶嶋神社は潮風が香って清々しい気分にさせてくれて参拝出来て良かったです。琵琶嶋神社の光景は他ではなかなか見れないので、いつまでもこのままであって欲しいと願うばかりです。

5.地図・アクセス

アクセス:横浜横須賀道路朝比奈ICから約10分

     京浜急行電鉄・横浜シーサイドライン金沢八景駅から徒歩約5分

駐車場:あり(車で来られる方は都度確認願います)

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~バイクに乗って曾屋神社へ

本日三社目は、秦野市の曾屋神社へお参りします。境内には名水が湧き出る井之明神水があるので行ってみたいと思います。(参拝日2019年10月28日) 

曾屋神社の御朱印 龍がとぐろを巻いているような御朱印です。井之明神はかつての神社名です。

曾屋神社(神川県秦野市曽屋)


曾屋神社は、かつて「井之大明神」「井之明神社」と称しました。名のとおり、「水」の神様をおまつりした。神社で古くは御神木であった杉の大木のもとにコンコンと水が湧き出していた。その豊かな湧水が、曾屋神社の起源であります。江戸時代、曾屋村で疫病が流行した。神託によると「神社の湧水を嫌い、氏子が井戸を掘ったことが井大明神の怒りにふれた」と、それ以来氏子は神社の湧水だけを使って生活するようになったそうだ。


神社情報

鎮座地:神奈川県秦野市曽屋1-6-10

創建:年代不詳

ご祭神:水波能売命(ミズハノメノミコト)・・・水を司る神様
    伊邪那美命(イザナミノミコト)・・・延命長寿・和合の神様
    誉田別命(ホンダワケノミコト)・・・文武の神様 国家鎮護
    事代主命(コトシロヌシノミコト)・・・豊漁、商工業繁栄
    加茂別雷命(カモワケイカツチノミコト)・・・開運・安全を導く神様
    菊理比売命(ククリヒメノミコト)・・・和解・物事の仲介の守護神

ご利益:安産、子授け、縁結び


1.ご由緒

凡そ1190余年前、天長年間の御鎮座とされていますが、古文書等が散逸し、詳しいことは明らかではありません。先人達が、湧き出でる水があって、そこに「水を司る神様」をおまつりしたので創始であると思われます。「新編相模風土記稿」に井之明神社として紹介され、「祭神詳らかならず、神体石二個を置き、例祭九月九日、天正十九年社領三石五斗の御朱印を賜る。老杉、円一丈二尺余を御神木とす。弊殿、拝殿、神楽殿、建てり。末社、稲荷、浅間、毘沙門、三峰」と記されている。享保八年(1723年)、井之大明神として正一位の神階を受けていいる。明治六年に至り、曾屋に鎮座する各神社を合祀し、地名を取って曾屋神社となった。鎮座地の高台は、昔から井戸がなく、氏子たちは境内湧水を「曾屋の水神様」と呼んで信仰し、大切にしてきた。こうした土地柄を反映し、明治時代初期、水神さまを水源にして横浜、函館に次ぎ、いち早く上水道化を図ったという歴史がある。

2.曾屋神社の境内

黒塗りの鳥居は珍しいですね。下から見るとアングル的に見事で一の鳥居の間から二の鳥居が見え、二の鳥居の間から拝殿が見えます。
社額も黒を基調にして鳥居と同調して、落ち着いた感じでいいですね。
境内は緑が多くて心休まります。
手水舎です、屋根が大きいですね。
左が子取り、右が玉取りの狛犬です。
曾屋神社では六柱のご祭神をお祀りしてます。
拝殿の扁額です。
こちらが本殿になります。現在の御本殿、弊殿、拝殿は昭和九年に再建されたものです。御本殿は、元禄五年の御造営なる、総欅の建物です。尚これらの御社殿、社務所の再建、用材は、昭和七年十一月十四日の大風雨により被害を受けた境内の樹齢数百年の杉や松を用い、氏子の協力のもとに行われたものです。
神楽殿
末社の井之宮正一位福徳稲荷大明神
境内にある護国神社の狛犬
護国神社
西南の役より大東亜戦争までの秦野出身の英霊を祀る。
立派な木ですが、台風で折れてしまったのでしょうか
井之明神水(いのみょうじんすい)
井之明神水・・・安政五年、今から150年ほど前、氏子の佐藤安五郎が巨費を投じ水源確保のため隧道を完成させ、水源水に成功した。このことにより 当時の中心市街地も益々発展を遂げていった。明治三年に至り、神社水源と乳牛水源をもとに「曾屋区水道」がひかれた。全国でも、横浜、函館に 次いで三番目の上水道となった。 この湧水は、昭和三十年代まで地域の皆さんに親しまれていましたが、諸般の事情によりその後、埋められることになりました。神社・神職・氏子の懸案であった 「湧水復活」が機を得て、平成十六年十二月に実現に至りました。かつての尊称「井之明神社」に因んで、「井之明神水」と名づけられました。 現在「お水取り」や「正月の若水汲み」、昨今の「名水ブーム」もあり、県外からも水を求めて多くの人達が参拝に訪れます。この歴史ある「御神水」に多くの皆さんに親しんで頂きたい。                               妹背石・・・真鶴町特産の小松石の水鉢です。石工の方の話によると、砕石の折、大きな石の塊の真ん中にうっすらとヒビが入っていたので、そこに矢(石を割る道具)を入れたところ、中ほどは凹凸にきれいに分かれていたそうです。この小松石は箱根火山の活動により形成されたもので、十有余万年を数えるものです。まさに、自然の生み出した奇石です。この珍しい雌雄一対の石を「妹背石(いもせいし)と名づけました。「妹背」とは「夫婦」「男女」のことで、縁結びや安産のご利益を求めて、多くの方が参拝されるようになりました。
写真は男石 元々女石と男石は一つの石でこんなにきれいに割れるとは、まさに奇石!
愛車も一緒に撮ってみました。
立派な授与所です。この日は誰もおらず、御朱印は道路を挟んだ社務所兼ご自宅で頂きました。

3.参拝後の感想

私がお参りした際は、境内には誰もおらず、帰り際にお水取りに来られる方がいました。
井之明神水は境内裏側にあるので(駐車場がある場所)、バイクを止めて真っ先にお水を頂きました、まろやかな感じで飲みやすかったです。あと黒の鳥居は初めて見るかもしれません、引き締まった印象でいつまでも記憶に残っております。あちこち神社巡りをしていると、あの神社はどういう特徴があったんだっけと思うときがあります、曾屋神社は「秦野」「井之明神水」「黒い鳥居」「妹背石」といったキーワードできっと思い出すでしょうね。

4.地図・アクセス

アクセス:小田急小田原線「秦野駅」北口下車、神奈川中央交通・二番線発バス     「宮前」下車、徒歩すぐ

駐車場:境内裏側にあります。

天気いい日にバイクで走るのは最高ですね~♪
帰り道も景色がよく気持ちよかったです。

5.金目川

 

市境近くにある欠の上人道橋から見る金目川です。川の水もきれいで景色もよくいい所です。

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~バイクに乗って出雲大社相模分祀・御嶽神社・八坂神社へ

本日二社目は、出雲大社相模分祀へお参りします。先日6年ぶりに注連縄を新調されたと聞いたので楽しみにしてました。隣接する御嶽神社、八坂神社にもお参りしました(参拝日2019年10月28日) 

 

出雲大社相模分祀の御朱印です。毎年7月にほおずき市朝顔市が開催されます、期間限定ほおずき御朱印は、通常は勾玉ですが、ほおずきの実にかわります。
御嶽神社の御朱印です。
八坂神社の御朱印です。御嶽神社・八坂神社の御朱印は出雲大社相模分祀で頂けます。


出雲大社相模分祀(神奈川県秦野市)


分祀とは本社から神様を分霊して祀っているところです。神様を分霊してもそのご利益は本社と何ら変わらないので安心です。


神社情報

鎮座地:神奈川県秦野市平沢1221

創建:明治二十一年(1888年)

ご祭神:大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
    事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)
    合祀祭神28柱(兼務神社23社のご祭神)

ご利益:縁結び、商売繁盛、地鎮、農耕、子授け、教育学芸、厄除け、八方除け

 


1.ご由緒

島根県出雲大社より正式に御分霊を賜った出雲大社教の分祀、出雲大社の御祭神「大国主命」様をお祀りする。明治二十一年(1888年)に、出雲大社第八十代国造、千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり報徳家であった草山貞胤翁が大国主大神の御神徳を関東地方に広める為この地に鎮祭申し上げた。そのほか近隣の秦野・伊勢原・平塚に鎮座する累代の神社二十三社二十八社の御祭神を合祀している。社殿は大社造りと権現造りを組み合わせた独自の様式で翼弊殿と呼ばれる長い弊殿が特徴的である。(境内案内板より)

2.出雲大社相模分祀の境内

どうしても本社と比べてしまいますが(お参りしたことはないですが)、相模分祀は本社を凝縮したといった印象で想像してたより立派な造りで驚きました。
青空に社額がよく映えます
手水舎で身を清めます
本社の出雲大社同様、参拝作法は二礼四拍手一礼、幸魂奇魂 守給幸給(さきみたま くしみたま まもりたまい さきはえたまえ)と祈りの言葉を三回唱えるみたいです
大社造りの荘厳な社殿は見応えあります。
写真の注連縄は6年ぶりに新調されたものです。この注連縄は、島根県飯石郡飯南町の「飯南町注連縄企業組合」に依頼して製作されました。重さは100kg以上あり、太さは45cmほどあるという。注連縄の材料とするために育てられた赤穂モチという稲を使い、2週間ほどかけて製作されたという。島根県から運ばれ、職人の手で神殿に設置されました。
歴代分祠長(宮司)の記念碑 
祖霊社
出雲大社の信徒の方々の祖霊(先祖の霊)をお祀りするために建立された神社です
ハート型のおみくじ掛けです、キュートですな。
天神社・・・神産巣日神(かみむすびのかみ)・少名毘古那神(すくなひこなのかみ)       筑紫社(つくしのやしろ)・・・ 多紀理比売命(たぎりひめのみこと)・田寸津比売命(たぎつひめのみこと)・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)                               祓社(はらえのやしろ)・・・瀬織津比咩神(せおりつひめのかみ)・速開都比咩神(はやあきつひめのかみ)・気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)・速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)
「千年の杜」では慶長十四年より湧水する「ゆずりの水」が溢れ、夏には蛍の飛び交う幻想的な鎮守の杜である。
龍蛇神の社
七福神の大黒天です
写真の水源は全国名水百選にも選定され、名水百選選抜総選挙の「おいしさがすばらしい名水部門」で全国一位にもなったことがあります。地下51mより汲み上げ、長い時間かけて自然の力によってろ過されたミネラルの豊富なおいしい地下水です。一年を通じ同じ温度で保たれ、夏は冷たく冬は温かみのある湧水です。
「千年の杜」の守護神として、お祀りされる「龍蛇神様」は大地の神・水の神・金運・縁結びの御利益のあるダイコク様のお仕え神様。
ペットボトルを持参すればお水を頂けます。
千年の杜づくり十周年記念事業 千年の杜づくり十周年記念事業として、近代金物造形アート 三つ足鳥居「記憶としての構造」が設置されました。 この三本の柱は水・緑・人を表しています。多様な生物が等しく生きることの出来る世界となることを祈念致します。
いのししは鳥居の真下にいます。打ち出の小槌や美麗な御朱印帳が揃っております。
こちらの授与所で御朱印ならび各種受付しております。

3.御嶽神社の境内

 

 創立年歴は不詳であるが、建久三年(1192年)頃より神社前の参道を御嶽道と称し、平沢村の鎮守神として記録されている。 慶長13年(1602年)踊宮鈴張の地に将軍徳川家康公が鷹狩りに来た際に、当社に参拝、社殿の改修を命じ、翌年に極彩色の彫刻を備えた桧皮葺きの御本殿を改修した。昭和51年に本殿を覆う形で木造銅板葺の御社殿を修造し、現在の形となった。
御嶽神社の境内には秦野市文化財指定木である樹齢1000年あまりと500年あまりの御神木の大けやきが2本あります。 今は取り除かれたが、ケヤキの腰の位置には大きなコブが生えており日照りの際、御神木のコブを引っ張ると伊勢原の大山阿夫利神社より恵の雨が降るとの伝承がある。
御嶽(みたけ)神社、通称「お御嶽さん」と呼ばれてます。
御祭神として日本武命 ( やまとたけるのみこと ) ・大己貴命 ( おおなむちのみこと ) ・少彦名命 ( すくなひこなのみこと ) ・櫛真智命 ( くしまちのみこと )をお祀りする。
扁額の周りの龍の彫刻が立体的で見事でした。

4.八坂神社の境内

樹齢800年といわれる大ケヤキ 堂々と構えて存在感が溢れてます。
あまりにも見事な大ケヤキなのでもう一枚 まっすぐ伸びています。
八坂神社の創立年月日は不祥であるが、400年前より当地にありました。
御祭神として須佐之男命 ( すさのおのみこと ) ・大国主命 ( おおくにぬしのみこと )をお祀りする。
当社の社殿は昭和42年、御嶽神社新築の際、古い社を移築したもので、昭和60年、屋根は銅版葺きとした。疫病よけの御利益をもつとされる。

5.参拝後の感想

新調した注連縄はピッカピカでやはり直で見ると迫力ありますね。龍蛇神前のゆずりの水には、次から次へと水を汲みに来られる方がいました、私も頂きましたがまろやかな感じで美味しかったです、近くに住んでいたら毎日汲みに来てるだろうなぁと思いました。隣接する御嶽神社と八坂神社も立派で相模分祀より遥か昔から鎮座しており、この平沢の地をお守りしていたのだと思うと感慨深いですね。

6.地図・アクセス

アクセス:

バス:小田急線 秦野駅から土橋経由 渋沢駅北口行のバスに乗車。
   保健福祉センター前バス停下車、徒歩3分。
車:東名高速道路 秦野中井インターより10分。

駐車場:無料駐車場40台

駐車場も広々としてます。