ssage body

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~月岡神社~上山城

本日は、山形県上山市に鎮座してます月岡神社へ参拝します。こちらの神社は上山城の近くにあるので上山城も観覧してみました。(参拝日2020年2月21日)    

こちらの神社では書き置きの御朱印を頂けます。月ごとに押される印が変わるので季節ごとに楽しめます。今月は梅が押されてます。
上山城の御城印 1階受付で頂けます、300円 日付も書いて頂きました。


月岡神社(山形県上山市)


ご祭神は藤井松平利長公と信一公。松平家は徳川家康につながる名門の家柄で藤井村(愛知県安城市)に住んでいたことから藤井松平といいます。 御祭神 利長公は、藤井松平家の始祖であり二代目信一公は、家祖として武勇の誉高く群雄が割拠する戦国時代に家康と共に信長に仕え、「桶狭間の戦い」に参加その後も徳川援軍の将として「姉川の戦い」「長篠の戦い」「小牧長久手の戦い」など家康が関わった主要な合戦には常に加わり出陣し武功を挙げ勇将・猛将として天下に名をとどろかせ、松平家興隆の基礎を築かれた御方である。

神社情報

鎮座地:山形県上山市元城内3-23

創建:明治十一年(1878年)

ご祭神:藤井松平利長公、藤井松平信一公

ご利益:縁結び、恋愛成就

 

1.ご由緒

元禄十年(一六九七)藤井松平家七代の信通公が備中庭瀬から上山城主に転封になり、信通公城内本丸に東照宮を建立し、併せて祖先の利長公・信一公の神霊を合祀し、徳川の恩義を追慕し、祖先の遺徳を仰ぎ藩士一同厚く崇敬した。明治四年(一八七一)廃藩の際、東照宮は旧藩主の上京と共に東京の松平氏邸に奉遷され、藩祖利長公・信一公の神霊は湯町に鎮座する日枝神社に奉遷された。明治十年(一八七七)旧本丸に壮麗な社殿を建立して松平家祖先の利長・信一両公の神霊を奉遷座し、報恩の誠を尽くし、永く上山の鎮守神と仰ぎ、産土の守護神として祈願すべきとの議起こり、同年六月神社の建設を願い出、同年十月許可を得て月岡神社と称した。
明治十一年九月神殿落成、同月十五日、日枝神社より奉遷座した。明治十五年五月村社に列せられ、明治四十年八月鶴脛町内に鎮座の九社を合祀。
明治四十三年五月神饌幣帛料供進神社に指定された。
大正二年稲荷神社を合祀(HPより)

2.月岡神社の境内

神明鳥居を通り拝殿へ向かいます。お城の隣に位置していて静かな佇まいの中にあります。
松の枝の振り方が芸術的で見事です!
素朴な雰囲気です。
拝殿でお参りします。赤い屋根が特徴的です。
月岡神社の扁額 歴史あるように見えますが創建は明治とのこと
拝殿には書き置きの御朱印が置いてありました。こちらは神職の方はいらっしゃらないので一枚頂き300円右の木の箱におさめました。

3.上山城

 

かみのやま温泉駅から徒歩10分くらいで着きます。
上山城は、最上氏の最南端の城塞であり、米沢の伊達氏や上杉氏との攻防の舞台となりました。最上家改易の後は歴代藩主の居住となりましたが、城下町まで含めた諸施設が整ったのは土岐氏の治政下で、月岡・天神森にそびえる壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れわたりました。しかし、元禄五年(1692)土岐氏の転封と共に、幕府により取り壊され、現在は堀跡や石垣が当時の名残をとどめています。現在の上山城は、映像など多彩な展示方法を取り入れた郷土資料館です。
月岡神社側からの上山城
入場料大人420円 入館時間は午前9時から午後4時45分 城内を見てまわってると、蔵王の修験者がほらがいをふいていて少しびっくりしました。
金のしゃちほこが輝いてます。去年屋根瓦等改修工事が完了したので、とても美しかったです。
天守閣からの眺望です。中央右側の山が三吉山、左側が葉山
市街地と蔵王連峰 雄大な風景に圧倒されます。

4.参拝後の感想

山形県の神社にお参りするのは、初めてでお城とセットで見れたので来た甲斐がありました。城内の展示も凝っていて修験者がなかなか迫力ありました。天守閣からの眺めも実に雄大さを感じました。お城のすぐ近くには足湯があります。

5.アクセス

電車:かみのやま温泉駅から徒歩10分

6.昼食

山形市にある元祖紅花そば綾波で昼食頂きました。
注文したのは、おすすめセットで紅花そば、混ぜご飯、きのこ汁。もれなく海老天もサービスで付いてきました。人生初の紅花そばは、つるつるした食感でいくらでも食べれます。どれも美味しかった~

きままにお城を見て御朱印を頂きます~松本城

こんにちはmomochiです。前回からの続きで上田から松本に移動しまして、松本城へ行ってみました。昨年の夏にも来たのですが、混んでいて城の中は見れませんでした。今回は平日ということもあり、比較的ゆったり見ることが出来ました。(2020年2月18日観覧) 

御朱印は二種類ありました、各300円 二枚セットだと500円 松本城管理事務所で購入出来ます。松本城では御城印ではなく御朱印と呼ぶそうです。
第三代城主小笠原秀政の印章「弌剣平天下」が押されてます。
第20代城主戸田光行公と、第23代城主戸田光則公の花押が押されてます。


松本城(長野県松本市)


国宝松本城 天守が国宝に指定された5城の一つ(他には姫路城、犬山城、彦根城、松江城)

1.松本城の特徴

五棟の建物は天守を中心に北には乾小天守を渡櫓でつなぎ東には辰巳附櫓と月見櫓を付属させたいわゆる連結複合式と呼ばれる独特の構成で、その外壁は各重とも白漆喰の大壁で腰には黒漆塗りの下見板を張ってある。月見櫓は天守建築には珍しい殿舎風造りで三方に朱塗りの回縁をめぐらしてある。

2.松本城と城下町

松本城はもと深志城と呼ばれ、中世には小笠原氏の一支城であった。そのころすでに今の二の丸東側には市町が形成されていたが、西方一帯は沼地であった。本格的な近世城づくいが始まったのは1580年代で、城郭と城下町一体の都市計画を推進したのは、豊臣大名としてこの地に入った石川氏である。天守を建てたのは2代康長の時で1593~94年と推定される。
 3重の水堀と塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭とした。この広さはおよそ39万㎡で、内郭には天守、御殿、蔵など城主と藩の施設を置き外郭は城主の親衛隊である上級家臣の屋敷地とした。総延長3.5キロの塁上には透き間なく土塀をかけ、前面は完全囲繞の水堀で、厳重な城門を構える虎口(枡形と馬出し)だけが場内への通路である。
 城外は南から北へ通る善光寺街道に沿って城下町を割り、その東側に寺社を配置した。城下の町筋は格子状のものより鍵の手やT字形交差が多い。居住区分は厳格で士と、町人の混住はまったくなく、士や敷地は木戸の内と外に分けて中級と軽輩の居住区とし、町人地は親町3町、枝町10町、24小路にランク付けして、身分と職業によって住まわせた。

3.松本城

この日は人も少な目でゆっくりまわれました
歴代城主の家紋が並んでます。水野氏の家紋「丸に立ちおもだか」、堀田氏の家紋「黒餅に堅もっこう」、松平氏の家紋「丸に三葉葵」、戸田氏の家紋「はなれ六つ星」、小笠原氏の家紋「三階菱」、石川氏の家紋「笹竜胆」
黒門には甲冑が展示されてます。
左から下にあるのが月見櫓、上が辰巳附櫓、大天守、渡櫓、乾小天守
天守一階の周囲1間通りは、内側の床より50cm低いので、これを入側または武者走と呼びます。戦闘の時、武士が矢玉を持ってここを走りまわるのでその名がついたといいます。
矢狭間・鉄砲狭間 松本城が天守が築造されたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以前である。そのために武装強化のために、弓や鉄砲を発射する狭間の数が多いのはその現れである。小さい方形のものを鉄砲狭間、長方形のものを矢狭間と呼び、内側が広く外側が狭い。蓋のない初期的構造です。
長篠の戦の屏風絵 左側が織田信長・徳川家康連合軍、右側が武田勝頼軍 織田勢は多数の鉄砲を用い、1万5000の武田騎馬軍団を打ち破った。左側に馬防柵や鉄砲が多く描かれている。鉄砲が戦闘の勝敗を決する重要な武器となっていた。
城内には火縄銃や管打式銃が数多く展示されてます。
天守閣から望む景色です。真ん中が王ヶ頭、右端が茶臼山、左端が袴越山になります。
月見櫓の中はこんな感じです。この月見櫓は松本城主松平直政によって、一国一城令という統制の厳しい中、寛永年中に三代将軍家光を迎えるため、増築されたものである。現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは、松本城と岡山城だけであるが、天守と一体となっているのは、松本城だけである。
埋橋から見る松本城 城と赤の橋のコントラストが絶妙です。

4.アクセス・観覧時間・料金

アクセス:電車:JR篠ノ井線「松本駅」下車 徒歩約20分

観覧時間:8:30~17:00(最終入場は16:30まで)

観覧料金:大人700円、小中学生300円、小学生未満は無料

開場日:年末(12/29~12/31)を除き無休

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~眞田神社~上田城址

本日は、長野県上田市、上田城本丸に鎮座する眞田神社へお参りします。

雪がうっすらと積もるなか朝一で行ってきました。(参拝日2020年2月18日) 

眞田神社の御朱印 節分なので鬼のスタンプが押されてます。
かぶとの御朱印帳がかっこよく、拝受しました。六文銭がこれでもかと感じさせる御朱印帳です。


眞田神社(長野県上田市)


上田城本丸跡にある神社、上田神社 歴代上田城主を合祀しています。

神社情報

鎮座地:長野県上田市二の丸1-12

創建:1879年

ご祭神:歴代の上田城主

ご利益:勝負運、仕事運

1.ご由緒

上田城本丸跡に鎮座する当社は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としています。しかし、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していました。

松平家は、真田氏、仙石氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで七代百六十余年の長きにわたる上田城主でした。松平家は先祖を徳川将軍家と同じくする松平氏の一つで、藤井松平氏と呼ばれます。上田城主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号しました。寛文九年(1669年)に亡くなられた忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあります。その京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいました。この御社が当社の起源になります。

明治維新の変革の中、廃藩置県により上田藩も廃されます。国に接収された上田城も間もなく民間へ払い下げとなりました。そして城跡は、急速に桑園・麦畑などに姿を変えていったのです。そのような情勢に中で、旧上田藩士や旧領内有志より、旧藩主松平氏への報恩のため、初代忠山公、二代忠昭公、三代忠周公の御霊璽をあわせてお祀りする神社を、上田城跡に建立したいとの声が起こりました。この動きは、上田城に拠って二度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けたという、真田氏の活躍などで名高い上田城跡を、史跡として後世にまで伝えたい、という願いがあってのことでもありました。そして、上田城本丸跡の所有者となっていた丸山平八郎氏の篤志により、その南半分の地が境内用地として寄附され、松平神社創立願が長野県より許可されたのは、明治十二年(1879年)のことでした。その後、本丸の残りの地も、やはり丸山平八郎氏から松平神社付属の公園用地として寄附され、上田の人々の憩いの場として本丸全域が整備されることになったのです。 真田氏は上田市の象徴でもある上田城を築き、その武略によって上田城の名を高からしめました。仙石氏はその後をうけて上田藩政を発展させるとともに、関ヶ原合戦後破却されていた上田城跡守護の神社として、また、新時代の神社として望ましいのではないか、という声が先の大戦後に起こりました。そして、昭和二十八年(1953年)に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社と改称致しました。しかし、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、初代城主である真田氏の名を冠して、昭和三十八年に眞田神社と再度改称し今日に至っているものです。(頒布資料より)

2.眞田神社の境内

六文銭の旗がたなびく様は絵になります。
神明鳥居
大きな手水舎です
登竜門 登竜門とは、中国の故事が由来で立身出世のための関門とされています。
裏側になるんでしょうか、不落門と書かれてます。徳川の大軍を2度にわたり勝利した「不落城」として知られています。
上田城は徳川の大軍に二度攻められても落ちなったので、受験や就職に落ちないという縁起のいい神社です。
眞田神社の扁額です。
この日は朝一参拝したので、まだ社務所は開いてなかったです。御朱印は9時から対応して頂けます。
本殿
信玄公兜松 天正十七年(1548年)上田原合戦の時、信玄公が真田幸隆と共に兜をかけたと云われています。
真田井戸 この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
伊勢神宮内宮遙拝所 遙拝所とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所のことです。ここから伊勢神宮まで256km
真田信繁公が身に着けたといわれる巨大な鹿角脇立朱塗兜があります。
絵馬の通り抜けがありました。
直接書いて頂ける御朱印は300円、書き置きの御朱印は500円です。節分の御朱印を頂きたかったのですが、既に終了してました。
全部大判サイズの御朱印帳になります。どれも魅力ある御朱印帳です。

3.上田城御城印

上田城の御城印 眞田神社で頂けます。

4.上田城

二の丸橋
北櫓と南櫓、中央が東虎口櫓門 眞田神社の拝殿が見えますね。
親子三代で撮っても面白いですね
北櫓の前には真田石があります。真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田氏に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。
西櫓 雪景色が似合います。
眞田神社から見た西櫓です。
上田城の堀 千曲川の第二段丘上に広がる上田城下町は、ほぼ平坦であるが、東方の城下町が城郭部分よりやや高くなっています。従って、堀の水は城より約4km東を流れる神川から取り入れていました。  現在は、櫓下の芝生広場から地下水を汲み上げて、堀へ供給しています。

5.上田駅

上田駅前には、真田幸村公像があります。時計が旗の形に溶け込んで違和感ないです。
上田駅、観光案内所横には、甲冑が展示されてました。

6.参拝後の感想

以前から参拝したかった眞田神社に来れたので、少し興奮気味でお詣りしました。歴代の上田城主をお祀りしており、過去には上田神社、松平神社と呼ばれ、現在は眞田神社となっております。真田と聞くと真田幸村に付き従った真田十勇士を思い浮かべてしまう私ですが、猿飛佐助や霧隠才蔵などの十勇士は創作(何人かは実在の人物をベースにしている)とは知りませんでした。時間があれば資料館等行きたかったのですが、次回上田に来た際に寄ることにします。

7.地図・アクセス

アクセス:JR北陸新幹線上田駅から徒歩12分

駐車場:上田城跡公園駐車場が基本無料(イベント開催時は駐車禁止)

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~荏柄天神社へ(バイク)

本日二社目は、鎌倉宮からもほど近い荏柄天神社へお参りします。荏柄天神社には駐車場がないのでバイクは鎌倉宮に置かせて頂き歩いて行きました。(参拝日2020年2月5日) 

荏柄天神社の御朱印 惚れ惚れする字体です

荏柄天神社(神奈川県鎌倉市)


神奈川県鎌倉市に鎮座してます荏柄天神社へお参りしました。ご祭神は菅原道真公です。

神社情報

鎮座地:神奈川県鎌倉市二階堂74

創建:長治元年(1104年)

ご祭神:菅原道真

ご利益:学業成就

 


1.ご由緒

古くは荏柄山天満宮とも称し、福岡の大宰府天満宮、京都の北野天満宮と並び、日本三天神の一つに数えられて来ました。平安時代中頃、雷雨と共に天神の姿絵が降りてきたのを里人が敬い、そこに神社を建てて祀ったのが始まりとされます。源頼朝が大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に幕府を開くと、その鬼門を守護する神社として崇められました。境内は国の史跡、本殿は国の重要文化財に指定されています。(案内掲示板より)

2.荏柄天神社の境内

鎌倉宮からほどなく歩いてくると見えるのが荏柄天神社の社標 びゃくしんがクロスして何とも神々しい雰囲気を醸し出しています。
学問の神様として鎌倉を代表する神社です。
びゃくしんを通り抜けると赤い鳥居があります。
石段を上がっていきます。梅の木があります。
神門から拝殿が見えます
石段を上がってるときにも気付くのですが、神門入って右側には御神木の大銀杏がそびえたっています。生で見るとすごい迫力あります。高さが25m、胴回りが10m。古い資料から、ご由緒にある天真画像が天降った地を里人が畏れ、踏まれないように、「いちょう」を植えたと記されているので樹齢は神社と同じく900年と思われます。
手水舎で身を清めます
荏柄天神社の拝殿です。鮮やかな朱色が印象的です。
白梅も咲き始めていました。
こちらは拝殿右側にある寒紅梅 鎌倉一早く咲くといわれます。
拝殿左側の階段を上がると絵筆塚があります。漫画家の故・横山隆一氏(鎌倉在住)をはじめとして、漫画家154名が描いた”かっぱのレリーフが飾られています。
かっぱ筆塚 漫画家の故・清水崑氏が愛用していた絵筆が納められています。
こちらの社務所で各種拝受できます。

3.参拝後の感想

鎌倉一早く咲くと言われる寒紅梅を見ることができ満足しております。何よりも驚いたのは、御神木の大銀杏です、圧巻の一言です。
900年前からあの場所に立っているわけですから、計り知れない生命力が木にはあるんだなぁと、大銀杏を見ながら興奮したわけであります。
お参りした日は、受験シーズンでしたので、参拝される方も多いように感じました。受験生や各種試験を受けられる方は一度お参りしてはいかかでしょうか。

4.地図・アクセス

アクセス:JR鎌倉駅より徒歩20分、または鎌倉駅より京急バスで「天神前」下車すぐ

駐車場:なし

 

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~鎌倉宮へ(バイク)

本日は、神奈川県鎌倉市に鎮座してます鎌倉宮へお参りします。今の季節は河津桜が咲いているということでバイクで行ってみました。(参拝日2020年2月5日) 

 

見開きの御朱印です。初穂料600円 獅子頭の判子が押されてます。

鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)


鳥居前に1本の河津桜が咲いてます。鎌倉宮は別名大塔宮(護良親王の通称)とも呼ばれています。

神社情報

鎮座地:神奈川県鎌倉市二階堂154

創建:明治二年(1869年)

ご祭神:護良親王

ご利益:魔除け、身代わり、厄除け

社格:旧官弊中社

社務所受付時間:午前9時から午後4時

1.ご由緒

御祭神・護良親王は幼少より英明・勇猛にして父帝後醍醐天皇を助けて、鎌倉幕府を倒し、平和な世を実現されて征夷大将軍・兵部卿に任ぜられましたが足利尊氏の陰謀の為に鎌倉二階堂に幽閉の御身となり、建武二年御年二十八歳にて苦闘のご生涯を閉じられました。明治天皇は親王への追慕の念、真に篤く明治二年勅使を以て一社をご創建され御自ら社号を鎌倉宮と定められ、永く親王の御意を祀られました。同六年明治天皇の行幸を仰ぎ、官弊中社に列格されました。

2.鎌倉宮の境内

官弊中社鎌倉宮の社標です。
1本の河津桜があると実に華やかになります。
高田(こうだ)みかん 日本武尊の父、景行天皇が九州に御征西中、肥後八代の高田に植えられた日本最初のみかん
御手植の梅 護良親王の弟宮、懐良(かねなが)親王御手植えの梅から実生したもので、九州八代から移植した木
立派な造りの手水舎です
盃割り社 備え付けの「かわらけ」を購入して、息をふきかけ自分の中にある厄をのせます。そして厄割り石めがけて投げます。割れるまで投げると書かれてます。
二の鳥居と拝殿
後醍醐天皇の皇子である護良天皇を祭神とする神社 護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。幕府が滅亡した天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕らえられ、二十八歳で非業の最期を遂げました。社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。十月には境内で薪能が催されます。
村上社 御祭神護良親王の忠臣、村上彦四郎義光公をお祀りしてます。あらゆる悪いものを身代わられます。
村上義光公(むらかみ よしてるこう)は護良親王の忠臣であり、常に親王に近侍して辛苦を共にされ、また一騎当千の豪勇で親王の危機を幾度となく救われました。 吉野落城に際しては、もはやこれまでと覚悟を決められた親王をお諫めし、身代わりとなるべく親王の鎧直垂を着用して、腹十文字に掻き切って壮烈な最後をとげられました。
こちらの門を通って社務所に向かいます。
御朱印は他にも「明治大帝」と「神鹿」も頂けます。
獅子頭の御守 護良親王自身も兜の中に入れて戦ったという由緒ある御守です。
小賀玉の木 創建当初から植えられたとされる御神木です。社務所の前にあります。

3.参拝後の感想

鎌倉宮は以前から行ってみたかった神社で、境内は広く良く整備された印象でした。摂社の村上社や南方社が祀られているのですが、護良親王への忠誠心を垣間見ることが出来る場所のように感じました。有名な鶴岡八幡宮からもほど近い場所に位置してるのですが、対照的にこちらの神社はゆったり落ち着いていて居心地が良かったです。あと獅子頭が特徴的でした。

4.地図・アクセス

アクセス:JR鎌倉駅より徒歩25分、東口から京急バスで10分 大塔宮下車

駐車場:境内に20台程の駐車スペースがあります。もちろんバイクもOK。

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~平河天満宮へ

本日二社目は、東京都千代田区にあります平河天満宮へお参りします。

天満宮ですので、もちろん菅原道真公をお祀りしております。(参拝日2020年1月10日) 

 

平河天満宮の御朱印 一月限定の御朱印で、今年の干支のねずみが押されてます。

平河天満宮(東京都千代田区平河)


半蔵門駅からすぐに鎮座しておりアクセス抜群です。

神社情報

鎮座地:東京都千代田区平河町1-7-5

創建:文明10年(1478年)

ご祭神:菅原道真、誉田別命、徳川家康

ご利益:学業成就、縁結び

社格:旧村社


1.ご由緒

江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(1478年)江戸の守護神として創祀された。慶長十二年(1607年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙己一、蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。現在も学問特に医学芸能商売繁昌等の信仰厚く合格の祈願者も多い。(境内案内より)

2.平河天満宮の境内

平河天満宮の銅鳥居 高さ5メートルにおよぶ鳥居で千代田区内最古の鳥居とのことです。
手水舎で身を清めます
常夜燈 この常夜燈は、本来左右一対ですが、完形で現存するのは一基のみで、もう一基は残存している石材を積み上げて往時をしのばせています。寸法は、高さ3.45メートル、幅・奥行ともに1.26メートルです。材質は安山岩ですが、火袋には花崗岩が、基礎にも新しい石材が使用され、ともに後世に補われたものです。装飾は、火袋の左側面に月(三日月)、右側面に日輪の形が施されており、中台には祭神菅原道真にちなんだ梅林の文様が付いています。
神楽殿
摂末社の三殿宮 大鳥神社(おとりさん)、塩神社(生活の神)、浅間神社(せんげんさん)
平河稲荷神社(商売の神)
百度石とは、百度参りを行うために使用される石標で、百度参りが行われる神社が境内に立て、そこから往復参拝するよう目印としたものです。百度参りは、個人的な心願のため特定の神社に百度参詣を行うことで、最初は百日間にわたり毎日参詣する形でしたが、のちには一日のうちに百度参詣する形に変化したといわれます。ただし、この百度石の場合は、背面に奉納者と思われる多数の人名がありますので、何らかの祈願の結果として建立・奉納されたと思われます。
力石 一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境にあって、若者たちが力試しに用いたと記録されてます。平河天満宮の力石の表面には、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」と刻まれています。
筆塚 使い古した筆の供養のために、筆を地に埋めて築いた塚。
平河天満宮には、五体の石牛、撫牛があります。
拝殿から銅鳥居を見たアングルです。
前足がピンと伸びた狛犬
サーモンピンク色の拝殿が印象的でした。
天満宮と書かれた扁額
拝殿前、右側に布袋像があります。
社務所近くにある縁結びの梅 二つのペアで梅の実がなることから縁結びや恋愛成就の御利益があるとされています。
こちらの社務所で御朱印頂きました。初穂料500円
御朱印を頂くと梅鉢社紋入りの挟み紙と社紋の形をした煎餅を頂けました。

3.参拝後の感想

御朱印を頂くともれなく煎餅(梅鉢の社紋の形)を頂けるのですが、これまた美味しい煎餅でもう一枚食べたくなりました。御朱印を頂くようになって思うのですが、御朱印関係なく神社へお参りするのも、もちろんいいのですが、こうやって何月何日にお参りしたと分かる御朱印は記憶にも記録にも残るので、御朱印帳を開くたびに、この日はこの神社とこの神社お参りしたんだったなぁと振り返るのも楽しみの一つです。次はどこにお参りして御朱印を頂こうかなと毎回わくわくしております。

4.地図・アクセス

アクセス:東京メトロ半蔵門線「半蔵門」駅下車 徒歩1分

     東京メトロ有楽町線「麹町」駅下車 徒歩5分

     

 

 

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~櫻田神社

本日は、東京都港区の櫻田神社へお参りします。都会のオアシス的な神社で、こんなところにあるなんてと思う神社でもあります。(参拝日2020年1月10日)   

 

こちらの神社は新撰組の沖田総司がお初参りしたと伝えられています。他には陸軍軍事である乃木希典(のぎまれすけ)もここでお初参りしたそうです。
櫻田神社の御朱印 左下に霞山の印があります 創建当時は霞山稲荷明神と崇められていたそうです。
港七福神 寿老神


櫻田神社(東京都港区)


東京港区の櫻田神社へお参りします。

神社情報

鎮座地:東京都港区西麻布3-2-17

創建:治承四年(1180年)

ご祭神:豊宇迦能賣神(とようかのうめかみ)

ご利益:農業、漁業、衣食住の諸産業、開運招福、厄除け

社格:旧村社


1.ご由緒

治承四年(1180)源頼朝の令により霞山桜田明神として霞ヶ関桜田門外に鎮座。寛永元年(1624)には現在の場所に遷られた。文治五年(1189)頼朝公が30貫の田畑を寄進、一般農家の田と区別するため、御神田の畔に桜を植えたのが「桜田」の由来という。(東京都神社庁より引用)

2.櫻田神社の境内

道路沿いにいきなり現れたという印象でした。
神明鳥居をくぐり中へ入っていきます。
細長い参道を歩きます。風情があります。
前足がぐっと前にのびたような特徴ある狛犬
手水舎で身を清めます
二の鳥居
社伝によると、治承四年(1180)に源頼朝の命で、渋谷重国(渋谷地名の由来)が桜田郷に創建した「霞山桜田明神」が起源。渋谷重国が山を焼いて狩りをしようとすると、白狐が現れ万丈の気を吐いたところ、そこから十一面観音が現れたそうです。これを源頼朝に申し上げ、頼朝の令により稲荷社を勧請し創建したと伝わっています。戦国時代に社殿は破損したが、文明年間(1469~1487年)に太田道潅(江戸城城主)が再興し、寛永元年(1624年)の現在の地に遷宮しました。田の印に桜を植えたことから桜田と呼ばれ、旧町名桜田町、霞町の名の由来と言われています。
境内社の福寿稲荷社 港七福神の寿老神をお祀りしてます。
こちらの社務所で各種頂けます。

3.御朱印帳

限定御朱印帳です。三種類の御朱印としおりが入っております。初穂料3,000円
日付は令和二年正月

4.参拝後の感想

こちらの神社は六本木ヒルズにもほど近い場所です、うっかりしてると通り過ぎてしまいそうになりました。今回は限定で授与される御朱印帳がどうしても手に入れたくて参拝しました。新撰組の沖田総司がお初参りしたとされる神社でゆかりの地として御朱印帳がだんだら模様になっております。桜もあしらわれてデザインが秀逸なのでお気に入りの御朱印帳が増えて満足しております。どんな神社だろうと調べてみると歴史ある神社で、源頼朝、渋谷国重、太田道灌と歴史上の人物が関わった神社なんだと勉強になりました。白狐の伝説も興味深く参拝出来て良かったです。

5.地図・アクセス

アクセス:東京メトロ日比谷線 六本木駅、都営地下鉄大江戸線 六本木駅 徒歩約7分

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~兵主神社

2020年最初のお参りは、大阪府岸和田市に鎮座してます兵主(ひょうず)神社へ行ってきました。元旦にお参りしたので大勢の方で賑わってました。(参拝日2020年1月1日) 

 

兵主神社の御朱印です。お正月の特別御朱印で鶴なのかなと思っていたら、年中こちらの御朱印だそうです。

兵主神社(大阪府岸和田市)


大阪府岸和田市に鎮座してます兵主神社へ令和二年初参りです。

神社情報

鎮座地:大阪府岸和田市西之内町1-1

創建:年代不詳

ご祭神:天照皇大神、八幡大神、菅原道真公

ご利益:五穀豊穣、子孫繁栄、家運隆昌、交通安全、学芸上達


1.ご由緒

延喜式内社。旧掃守郷の総社で西之内、上松、下松、尾生など近隣十二か村を氏子区域とし禰宜一人ずつを出して当社に奉仕していたという天正年間に社殿が焼失した後、各村はそれぞれ氏神を勧請したため以後は西之内村のみで祭祀した。ただ雨降りの神として崇敬を受けていたため、早天の際の祈雨祭には従前の十二か村から庄屋年寄が出仕したという社殿は、豊臣秀吉の再建と伝え国重文明治六年に郷社に列格し兵主神社と改称。同四十二年に下松村の八幡神社、菅原神社、厳島神社を合祀し、両村で奉仕し今日に至る。(境内案内より)

2.兵主神社の境内

きれいに整備された参道を歩きます。
お参り前に手水舎で身を清めます
兵主神社には、社宝として室町~江戸前期の能面9面などが伝えられています。これは「雨降りの面」と呼ばれ、雨乞いの際に演じられた能に用いられたものです。
普段は静かな境内ですが、元旦にお参りしたので大勢の方がいらっしゃいました。
天照皇大神、八幡神、菅原道真公をご祭神とする延喜式内社
拝殿前に大きな絵馬が立っています。近くの高校の美術部が奉納したものです。
龍王神社
三宝荒神社
牛神社
牛の像がひっそりとあります。
稲荷神社
大宮戎神社
厳島神社

3.参拝後の感想

令和二年最初のお参りは兵主神社。お正月だと人が混んでいて個人的にゆっくりお参り出来ないので避けているのですが、こちらの神社は境内が広めでゆったりとしており、参拝者は多かったですが、そこまで混んだ感じはしなかったです。
御朱印は鶴のスタンプで新年から縁起がいいですね。末社が六社もあり全部お参りしましたが、なかなかのボリュームです。                  末社の中に牛神社があり、その横に八幡宮でよく見かける牛の像がありました。気分よく参拝でき、今年一年いいスタートがきれそうです。

4.地図・アクセス

アクセス:南海本線和泉大宮駅から徒歩20分

駐車場:境内に駐車場あります。

境内も広めで、車も駐車出来ます。

 

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~建勲神社へ

令和元年の締めくくりは、京都に鎮座してます建勲神社へお参りします。こちらの神社は、織田信長公をお祀りしており、刀剣の聖地でも知られています。現在筆者は刀剣乱舞にはまり中です。(参拝日2019年12月30日)  


建勲神社(京都府京都市北区)


木造の明神鳥居が荘厳な雰囲気を醸し出してます。

神社情報

鎮座地:京都府京都市北区柴野北舟岡町49

創建:明治2年(1869年)

ご祭神:織田信長公

ご利益:大願成就、難局突破、開運、産業指導の神、災難除け

社務所受付:9時~17時


1.ご由緒

織田信長を祀る神社で、建勲は通称「けんくん」神社と呼ばれる。正式には「たけいさお」

天下を統一した信長の偉勲を称え、明治二年(1869)に明治天皇により創建された。同八年(1875)、別格官弊社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。

船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武(北の神)として造営の基準点にされたという場所で、本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を受け、主君である信長の廟所と定めている。

信長着用の紺糸威胴丸(こんいとおどしどうまる)、桶狭間の合戦で信長が戦利品として持ち帰った義元左文字と称される太刀、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。

十月十九日の船岡祭は、祭神・織田信長が永禄十一年(1568)に初めて入洛した日を記念したものである。

2.御朱印

通常御朱印です。
天下布武龍章御朱印です。挟み紙の「でかした」がいいですね。
敦盛御朱印 信長が好んだ敦盛の一節は、平敦盛の場面を詠んだのではなく、その平敦盛を討った熊谷直実が出家する際の気持ちが語られてます。

3.刀剣御朱印

薬研藤四郎(やげんとうしろう)御朱印 粟田口藤四郎吉光の短刀は切れ味抜群であるが、主人の腹は切らないという言い伝えがある。
へし切長谷部(へしきりはせべ)御朱印 長谷部国重の作 織田信長の愛刀 観内(かんない)という茶坊主が失敗を犯した。信長は手打ちにしようと追いかけたが、観内は台所の御膳棚の下に隠れたという。棚の下では刀を振り上げて切ることができず、仕方なく棚の下に刀を差し入れあてたところ、たいして力を入れることもなく胴体ごと「圧へし切って」しまったという。恐ろしいほどの切れ味の名刀。

4.御朱印帳・絵馬

 

天下布武の御朱印帳 大判サイズになります。18×12cm
裏はこんな感じです。シンプルながらも信長の文字が存在感あります。
こちらも大判タイプで宗三左文字(ピンク)仕様です。宗三左文字は、義元左文字の名で重要文化財に指定されてます。
見開きの御朱印帳以外はカバーは付いてません。
見開きの御朱印帳 大きさは26×18cm ビニールカバー付いてます。実に豪華な御朱印帳です。
裏面は天下布武御朱印帳と同じと思いきや、薬研藤四郎がありました。
絵馬は三種類あって、一番かっこよかった敦盛の絵馬にしました。

5.建勲神社の境内

大鳥居をくぐり左側から進んでいきます。
階段をのぼった先には、「大平和敬神」神石があります。
結構急な階段が続きます
後ろを振り返ってみると京の街並みが見えます。
右奥に見えるのが貴賓館です。立派な社号標が建ってます。
何気にこの案内図が分かりやすく、それぞれの位置を把握出来ました。
敦盛「歌碑」 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか  桶狭間の合戦出陣に際し織田信長公が舞われた「敦盛」の一節を刻んだ歌碑。
切妻造檜皮葺の手水舎で身を清めます
こんなパネルもありました。
たくましい狛犬の視線を感じつつ拝殿へ向かいます。
拝殿 内側に織田信長公三十六功臣のうち十八功臣の額が飾られてます。
御神木らしき木だったので一枚
神門(祝詞舎)
後ろに見えるのが本殿で、その前に位置してます。
ここまで結構階段のぼりました。
大鳥居を真っすぐ進む階段をあがると義照稲荷神社へと続いてます。
末社義照稲荷神社 建勲神社側から来るとこちらの参道に辿り着きます。ご祭神は、宇迦御霊大神(うかのみたまのおおかみ)、国床立大神(くにとこたちのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の三柱の大神を祀る。
稲荷命婦元宮 
右側に見えるのが比叡山です。

6.参拝後の感想

今回は帰省途中に京都に立ち寄り参拝しました。当日は天気心配でしたが、何とかもってくれて良かったです。以前からこちらの御朱印帳(天下布武)と敦盛の御朱印を拝受したかったので、手に入れることが出来て満足してます。他についついあれもこれも手を伸ばしてしまいました。人気のある神社ですので参拝される方が後を絶たない感じで、神職の方が御朱印を一つ一つ丁寧に書いて下さるので、行列が出来るときもしばしばあるみたいです。時間があれば刀剣巡りをしたかったのですが、また次回に取っておきます。京都には魅力ある神社が数多くあるので、腰を据えてゆっくり巡りたいものです。

7.地図・アクセス

アクセス:市バス「建勲神社前」または「船岡山」バス停にて下車

駐車場:近隣のパーキングを利用

8.昼食

昼食は建勲神社近くにある北京亭で頂きました。写真撮り忘れたのですが、チャーハンが鉄鍋のまま出てきてびっくりしました。店内はジャズが流れていて落ち着いた雰囲気でした。

きままに神社を参拝して御朱印を頂きます~バイクに乗って富岡八幡宮へ

本日は、横浜市金沢区に鎮座してます富岡八幡宮にお参りします。この日は、金沢区のKAWASAKI PLAZAの試乗会があったので、その帰りに立ち寄ってみました

富岡八幡宮の御朱印です。初穂料300円

富岡八幡宮(神奈川県横浜市金沢区)


鎌倉幕府の鬼門除けとして祀られた神社です。八幡宮の山が応長元年の大津波から富岡を守ってくれたので「波除八幡」とも呼ばれています。

神社情報

鎮座地:神奈川県横浜市金沢区富岡東4-5-41

創建:建久二年(1191年)

ご祭神:応神天皇、蛭子神、天照皇大神

ご利益:商売繁盛、家内安全、交通安全、鬼門祓

社格:旧村社


1.ご由緒

当宮はおよそ八百年前、建久二年(1191)に源頼朝公が当郷鎮護の為摂津の西宮の恵比寿様をお祀りしたのが始めで、のち安貞元年(1227)には八幡大神を併せ祀り、社名も八幡宮と改めました。

鎌倉からはちょうど鬼門の方角に当たる海に面した小山に祀られていて、社も鬼門を向いており、鎌倉幕府の厄災防除の神としても祀られた神社です。また八幡宮の山が応長(1311)の大津波から部落を守った事から『波除八幡(なみよけはちまん)』とも称ばれ、広く江戸方面からも信仰を集め、深川・富岡八幡宮へ御分霊された事は有名です。 

祭礼は、7月(旧暦6月15日)と9月(旧暦8月25日)のニ季があり、いずれも「祇園舟」「湯立神楽」など鎌倉時代より八百年以上も継承されている特殊神事があります。

社殿の造営は、天正・慶長・寛永などの棟札に、鶴岡八幡宮造営に併せ、また破損の度に時の地頭が行った事が記されています。寛永1年~寛永3年の鶴岡八幡宮の造営に際し、漆塗りの本殿の扉を拝戴し、当宮本殿内陣の扉として移設されています。現在の本殿は天正14年(桃山時代)の建築で、平成14年の造営により覆殿(おおいでん)を復興し、柿葺(こけらぶき)の屋根・丹塗(にぬり)の社殿など、桃山時代の姿に蘇りました。(HPより引用)

2.富岡八幡宮の境内

駐車場から表参道の道を進むと、こちらの鳥居に辿り着きます。この鳥居のある辺りは、昔は海だったそうです。
手水舎で身を清めてからお参りします。
祇園舟は富岡八幡宮に伝わる特殊神事で、古来、旧暦六月十五日に行われていた夏越の祓の神事で、市の東南端海岸部に伝わる類似の行事の中でも最も古い伝承を持つ行事です。 青茅で作った長さ70センチ、幅50センチほどの楕円形の舟にお供え物として折敷に小麦の粒を敷き、その上に大麦の粉で作っただんごを置き、麦麹で醸した甘酒をかけたものを乗せ、舟縁には一年分十二本の御幣を並べ立て、中央には大きな御幣を並べ立てて、沖合遠く流します。青茅の舟と御幣に一年間の罪穢を託して流し遣る夏越の祓と、収穫した麦の初穂を海の神にお供えし、五穀の豊穣と海の幸の豊漁に感謝する要素が一緒になったものといわれます。 八幡丸・弥栄丸と呼ばれる二隻の艪舟で行われ、沖合の潮の流れのよいところまで進むと二隻の間から茅舟を放流し、帰ろは岸まで全速力の競漕で帰る勇壮なもので、宮の前が埋め立てられた今日でも優雅な雅楽の音とともに昔ながらにとり行われ、無形民俗文化財として貴重です。(横浜市教育委員会掲示より)
蛭子命(ひるこのみこと)と聞くと誰ですかとなりますが、えびす様です。蛭子命は、「古事記」では、伊耶那岐命(イザナギ)と伊耶那美命(イザナミ)との間に生まれた最初の神であります。蛭子は、イザナミの方から男性のイザナギを誘ったために、不具として生まれたと記されてます。
稲荷社
祖霊社
神域・・・海の岩が二個祀られております。
頼朝公が地震や津波を危惧して、丘の上に建てたと伝えられております。広く江戸方面からも信仰を集め 深川 富岡八幡宮へ御分霊されました。
扁額には正八幡と書かれてます
ガラス張りの拝殿・本殿は珍しいですね。
少し葉が落ちかかってましたが、見事な銀杏の御神木です。
こちらの社務所で御朱印頂けます。

3.参拝後の感想

KAWASAKI PLAZA金沢店から近かったので帰りに寄ってお参りしました。境内はきれいに管理されて小高い丘の上もあってか清々しい空気に感じました。祇園舟という800年以上続いている特別な神事があり、その年の罪やけがれを茅舟(かやぶね)に託して海に流し、すがすがしい気持ちで夏を迎えられるという。そんな伝統ある行事を一度見てみたいものです。

話は少し変わりますが、日本古来から伝わる伝統行事には、お正月、節分、雛祭り、お盆といった行事がありますが、年々参加人数が減っている傾向で、逆に海外の行事(クリスマス、バレンタイン、ハロウィン)が増えているということを耳にします(企業による宣伝効果が大きいのもあります)。確かに海外の行事は華やかで楽しい面が多いです。日本の伝統行事が薄れていくのは、何だか寂しく思います。筆者自身も少しでも行事に触れるようにして、伝統ある行事を大切にしていきたいと参拝を通して感じました。

4.地図・アクセス

アクセス:

京浜急行 京急富岡駅 徒歩8分

シーサイドライン 並木北駅 徒歩10分

駐車場:無料駐車場有り(表参道と裏参道の案内がありますがお好きな方からお参りください)

裏参道はこちらの鳥居を通り階段を上がっていきます。
もちろんバイクも駐輪出来ます。